常願寺川南岸 与四兵衛山と論田山城
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/50/ff/j/o0448029914510045628.jpg?caw=800)
亀谷(かめがい)銀山は、天正6年(1578)、あしくら作左衛門によって、与四兵衛山、金山谷において発見されたとされている。
天正6年といえば、3月に越後上杉謙信が没し、越中では織田勢力が攻勢を強め、9月に神保徳山によって飛騨江馬氏が拠点としていた中地山城を退去する(落城?)年。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/45/6f/j/o0432029114510045633.jpg?caw=800)
江馬氏は、北飛騨高原郷を本拠とする国人領主で、永禄以降この地に進出し、常願寺川に臨み、飛騨に繋がる「うれ往来」と、信濃に繋がる「立山往来」を扼す要衝中地山城を拠点に、支配を固めていた(江馬氏の越中進出については中地山城の記事でもう少し詳しく書きます)。
中地山城の東方1.7km近接する論田山城に関する文献史料は存在しないが、現地遺構を観察すると未完な感もするが中地山城とに類似構造を感じる。論田山城は江馬氏による城であると私は思う。(佐伯哲也氏も越中中世城郭図面集Ⅰで指摘、大山町教育委員会発行の富山県大山町中世城館調査報告書では異なる)
で、江馬氏が中地山城の詰城として急ぎ取り立てたとすると、何故か。
亀谷銀山の存在を嗅いでいたからではなかろうか。あしくら作左衛門によるとされる発見が天正6年の9月以前なのか以後なのかわからないが、江馬氏は本拠飛騨高原郷(現在もスーパーカミオカンデ他、鉱山業が盛ん)において、鉱山経営により石高をはるかに超える強大な勢威を誇っていた。
中地山城よりも飛騨よりではなく、銀山発見地に近い論田山に城を構えたのは、銀山の匂いを嗅ぎ、秘密に採掘を進めていたからかもしれない。
論田山城のアクセス
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/2d/ce/j/o0314020914510045640.jpg?caw=800)
有峰林道に向かって、沢の手前左に林道を入る。
神明社がある。数十mで道が交差するが直進し、ひたすら道なりに進む。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d5/86/j/o0314020914510045644.jpg?caw=800)
水力発電施設の最上部に行きつきます
バイク右手の山中に踏み込み、10分かからず切岸下に辿り着けます。
論田山城は次記事で。
参考文献 佐伯哲也著 越中中世城郭図面集1
大山町教育委員会発行の富山県大山町中世城館調査報告書
大山歴史民俗資料館企画展「大山の鉱山」「」