戦国期の越中神保氏 その2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 神保氏の攻勢は、甲斐武田と結んだ行動であったようで、椎名氏と結ぶ越後長尾景虎の越中出兵となる。    永禄3年3月景虎は越中へ出馬した。
 永禄3年というと、景虎は8月には上杉憲政を奉じて関東へ出兵、翌4年3月には相模北条氏の小田原城を攻囲、鎌倉鶴岡八幡宮に於いて上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領職を譲り受け上杉政虎となる。そして9月には信州川中島において武田信玄と第4回目とされる川中島合戦を戦う前年にあたる。戦国大名上杉謙信の生涯において、最も猛々しく鋭鋒鋭かった時代であろう。 
 
イメージ 1
その1使用地図
主要地をGoogleに書き込み。
 
 事実、景虎率いる越後勢は強く、富山城をその月のうちに落とし、増山城は自落、長職は行方を眩ましてしまう。永禄三年卯月廿八日佐竹義昭宛 長尾景虎書状(上越市史205)にその様子がみえる。
 

     「(前略)、不図越中国出馬候処、同晦日夜中、神保在城号富山自落、彼国西郡号増山地利へ相移候条、則越中国味方衆雖指向候、増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当如何ニも手堅相抱候間、各見除、少々引除陣申候間、景虎取越大河切所、向増山、及近陣可相攻分ニ候処、又其夜半神保前行、武具・乗馬已下棄て之、不知行方躰候、(後略)」

 

   イメージ 2
嶮難之地、増山城
堀切の左 二の丸
   右 安室屋敷
左下 馬洗い池
 
イメージ 5
  城域北西に、増山落城時、神保氏の夫人が勇敢にも女数人とともに敵陣に切り込み、兵60人を斬って自ら城に火を放ち、家宝を携えて投身したと伝えられている神保夫人入水井戸がある。
 敵は長尾景虎か
 
 景虎が越後へ引き上げると、行方を眩ましていた長職が復活し,増山城を取り戻し椎名氏と抗争を再発。永禄5年上杉政虎の再征を受けることになる。7月に政虎が出陣し一変(打ち散らしたか)したが、9月に味方が敗れたため10月に重ねて出馬した処、神保勢は諸要害打明、増山城に籠城。押詰め放火し巣城にしたところ、長職は能登畠山義綱の仲介によりついに降伏した。
 この永禄5年の戦いも、太田美濃守宛 上杉輝虎書状(上越市史326)から様子がうかがえる。
 
     「越中国之義、去七月出陣之刻、一変之処、去月五日於彼口不慮一戦、味方中失利、神保民部太輔其外数多討死、然間、彼国依再破、椎名右衛門太夫難儀候、毎度如申届、当府物裏与云、年来専此方来人与云、非可見除候条、重而出馬処、諸要害打明、凶徒号増山地利楯籠候間、押詰近辺悉放火、成置巣城候、内々今般可付落居分候処、神保惣右衛門尉属畠山修理太夫方悃望之旨、其上氏康于今在陣候者、早速為可越山相究、十六納馬候、(後略)」
 
イメージ 3
一の丸から城下をみる
押詰近辺悉放火、成置巣城候、とあるから、城下が焼かれるさまを、長職はここからみていたか
 
イメージ 4
城下町に残る土塁
 
 長職は、堪忍分として旧領を安堵されるが制約下で逼塞したようである。
 
 永禄11年、永禄9年に重臣衆に能登を追われた畠山義綱の帰国作戦に際し、椎名氏が上杉氏を離れて甲斐武田氏と結ぶと、神保家中も、上杉方と武田・椎名・一向宗方とに分裂する。武田・椎名・一向宗方についた派は弾圧され、上杉方についた小嶋職鎮が神保家中を主導するようになる。元亀2年(1571)、長職は長城に跡を譲り、入道し宗昌と号し、間もなく死亡したようであるが死の状況はわからない。
 長城は跡を継いだようであるが、上杉における越中衆筆頭は小嶋職鎮であり、神保被官達は上杉家中に組み込まれたようである。
 
 長職の子と思われる神保長住は、京都に逃れ織田信長の庇護下にあったようであるが、天正6年(1578)謙信の死後、信長の勢力を借りて飛騨経由で越中に入り、旧神保領をほぼ支配下に置く。天正10年、富山城を小嶋・唐人に攻められ幽閉されると失脚した。
 
 天正5年以後、もと長職の勢力下にあった守山城に、能登畠山氏の出であるとされる神保氏張があらわれる。永禄5年に長職が能登守護畠山義綱を頼り政虎に降伏した頃、守山城が能登畠山氏の影響下の神保氏張にかわったのではないだろうか。この神保氏張家は佐々、徳川と仕え、徳川家旗本として家名を残す。
 
  戦国期の越中神保氏の動向が大まかですが理解できました。これでようやく増山城に掛かることができます。
 
参考文献 久保尚文著 越中中世史の研究(昭和58年発行) 発行後30年ちかく経っているため、後の研    究で新たな事がわかってきているかもしれません。お知りおきの事がございましたらご教示ください。
     魚津市教育委員会発行 図説 魚津の歴史   上越市史