戦国期の越中神保氏 その1 | えいきの修学旅行(令和編)

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 越中守護は康暦2年(1380)以降室町幕府の有力大名である畠山氏が務めた。
  守護代としてさきに遊佐氏、後に遊佐(砺波郡)、神保(射水・婦負郡)、椎名(新川郡)の三氏をおいた。延徳三年(1491)冷泉為広の越後下向日記に、越中では蓮沼の遊佐館・放生津の神保館・小津の椎名館の三守護代館に逗留している。
 畠山稙長が天文14年(1545)に没して後は、越中守護職は新たには補任されなかったようで、以降は能登守護畠山氏が正式な越中守護職ではないが、越中守護機能を代行し、越中に対する仲介や調停機能を行使したようである。
 
南北朝時代も書くと内容が多くなりすぎるので室町後期から戦国期をまとめます。イメージ 1
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 永正3年(1506)3月、加賀一向一揆の侵攻に対し、越中国人衆の援軍として戦った越後守護代長尾能景(謙信の祖父)が、増山城近くの砺波郡芹谷野で討死する。だが神保氏は一揆勢と和睦したようで、能景の跡を継いだ為景(謙信の父)は、神保慶宗と一向一揆を仇とし、畠山尚順・能登守護畠山義総と同盟、永正16年、17年と神保氏を攻める。神保氏は椎名氏と結び対抗するが、永正17年12月21日新庄城の合戦で敗北、慶宗は自刃、越中守護代神保氏は一旦滅亡する。為景は畠山稙長の父畠山尚順に越中新川郡守護代職を宛がわれる。これは越中守護畠山稙長の越中守護職、長尾為景に新川郡越中守護代職、越中砺波郡における一向一揆の守護代遊佐氏の復帰は許さないが領主ニ相随事、を、お互いに認め合う和議の形態と思われる。
 
 天文年間になると為景の死(天文5年)もあり、神保氏は慶宗の嫡系とおもわれる長職(ながもと)の元に再興され、神通川以東にも進出するまでになる。戦国期は増山城(記事作成中)を居城としていたようだが、富山城を築き進駐、常願寺川のあたりまで進み、新川郡又守護代椎名氏と抗争を起こす。
 椎名氏は、越後長尾景虎の援助を求め、永禄3年、景虎の越中出兵を招く。
 長くなるので、その1はここまでにします。景虎と神保氏の戦いはその2で…。
 
 参考文献 久保尚文著 越中中世史の研究(昭和58年発行)
        魚津市教育委員会発行 図説魚津の歴史
 越中中世史の研究は、発行後30年ちかく経っているため、後の研究で新たな事がわかってきているかもしれません。 お知りおきの事がございましたらご教示ください。