大道城 その1(富山市八尾大道) | えいきの修学旅行(令和編)

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大道城 (おおどうじょう)
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主郭設置図に、佐伯哲也 中中世城郭図面集Ⅰを参考に加筆
 
 天正九年(1581)、織田勢に攻められ落城した上杉方の富崎城から、寺嶋牛助・小島甚助が落ち延びたのがこの大道城とされる。
 寺嶋牛助という武士も小島甚助という武士も、また戦国期越中の情勢も私はよくわからなかったので、天正9年頃の越中とはどういう情勢か調べ、まず簡単に書いてまとめます。
 天正6年に上杉謙信が没するまでは、越中は一向衆勢力も含めほぼ上杉謙信の勢力下にあったが、謙信が没し,徐々に織田勢力が優勢に浸透してきている情勢。天正10年には越後境に近い魚津ー松倉の線まで織田勢が東進、6月上杉勢は越後に撤退し魚津城は落城する。直後、本能寺の変が勃発、といった年代。
 標高639mの山上、というより山奥にあり、遺構は期待していなかったのですが、技巧的な普請に、良い残存状況に、驚きのいいお城です。規模は小さいですが、あまりにいいので大きく写真をつかい、二部構成にて紹介します。
 

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その1は、主郭の南側(絵の左側)搦手口から主郭までを辿ります。
 
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 林道を登っていくと(林道への入り口は後ほど紹介します)、親子でピョンピョン跳ねる動物に遭遇するなど、あきらめかけていた程の山奥に大道城の標柱と説明版が立っていて登り口があります。
 
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なんと、道があります。
ここから主郭まで10分程度。予想外の良道です。
この右がD郭塁線土塁下の南線
恐る恐る進みます。
 
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右に曲がります
 
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なんと、遊歩道が整備されている!
階段のうえの線が、D郭塁線土塁
 
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郭D塁線土塁
横堀を堀って搔き揚げています。
D郭塁線土塁をこえると搦手口
  
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 遊歩道は敷居土塁を越えC郭下の横堀道10に入っていますが、本来は乗り越えることはできず、右へ折れ枡形にはいります。
 
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桝形をすすみ、左に折れ、D郭中央あたりからC郭下の横堀道に入ります
遊歩道を進みC郭下横堀道から、上から搦手を見てみます
 
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遊歩道、しきいを乗り越えC郭下横堀道10に入ります
 
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C郭下横堀道10
ここから搦手口をみてみます
 
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 したから登って来て、敷居で折れ枡形に入りD郭内へ、がルート。敷居の裏側へ入っても城内には入れない。しきいは、偽通路をつくっているのか。桝形内にしきいをつくり、運動を制限し、かつ混乱させ、桝形内dでもたついている敵をD郭、C郭、C郭下横堀から集中放火殲滅をはかる。
 
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D郭内に進んだ敵は、中央あたり(木の間あたり?)からC郭下横堀道10に入る。
手前に進むと城外。奥に進むと虎口11からC郭に入る。
このC郭下横堀道は約35mあり、その間C郭からの攻撃を受ける。
 
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C郭下横堀道10の東端は折れ込み、堀切で狭められ、虎口11からC郭内へ入る
 
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虎口11から入ったC郭内
大きな井戸が侵入勢の侵攻、展開を妨げる。
写真左は藪。
 
井戸を避けるように曲がり主郭前面の馬出し様のE郭へ
 
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E郭を横から
馬出し状に主郭虎口へ入る土橋前を守る
 
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E郭から主郭内枡形虎口へ入る土橋
 
          土橋左の横堀                      土橋右の横堀
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土橋のを渡り、内桝形虎口を経て主郭へ
 
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大道城主郭
左に図が設置されている。
地元ではゴテン(御殿)と呼ばれているらしい。寺嶋・小島に御をつけるであろうか。
より格上の人物がいたのではないだろうか。
 
主郭から北のB郭、大手口方面はその2で
 
 参考文献 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房