その2では主郭の北方向、B郭から大手口を経て城外を辿ります。
その1で紹介した搦手方向からの虎口には、枡形を配していますが、大手方向の虎口1、虎口3は枡形を用いず、櫓台、張出を設けて防備を固めています。
主郭
写真奥が大手方向
削平がいまいち。御殿?が建っていたのだろうか。
主郭から北へでる虎口1
虎口1右の土塁は広く、櫓台と思われる
櫓から迎え撃ったか。
虎口1外は横堀で造られた土橋を経てB郭へ繋がる
土橋左横堀 土橋右横堀
虎口1を外から
B郭右は藪
ここも斜めで削平がいまいち
B郭から城外へ出る大手虎口3
土橋を経て城外へ
土橋先には井戸(窪んでいるところ)があり、寄せ手の動きは制限される
井戸
大手口を城外から
横堀が巡る
ここに寄せる敵兵には写真左のさきの張出から横矢がかかる
大手口に横矢をかける張出
大手口(北)、搦手口(南)の命名は現地看板に拠りますが、はたしてどちらが大手でしょうか。その1で辿った南は枡形を配し構えますが、その2で辿った北は櫓台、張出を備え守ります。どちらも計画的普請で防備は厳重ですが、郭内は削平が甘く、居住的には未完な気がします。主郭にも御殿が建っていた気はしません。富崎城を退いた将兵が追及に備え戦闘面を急造、頑強に抵抗できるだけの状況をつくり、有利な条件で講和(降伏)したため、居住環境までは整備する前に明け渡し、廃城となったのではないでしょうか。
佐伯氏の記す、天正9年頃の上杉氏の技術指導により寺嶋・小島両将が築城、短期間の使用の後廃城、織豊武将による改修の否定は、頷ける。林道説明版は縄張りに織田の支援をうけた神保長住の関連を指摘している。
大道城への林道ですが、私は県道53から分岐する方向から目指しましたが、途中かなりの悪路で、退却するか突入するか迷いながらのアプローチでした。
帰路は来た道を戻らず、写真の地点に降りてきました。このルートのほうが道の条件は良いです。看板には大道城まで8km、40分と書かれています。乗用車も何とか到達できると思います。ここhttp://yahoo.jp/Q1hDMD かなりの山奥ですが、一見の価値のあるお城です。
参考文献 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房