千曲川越しに見る飯山城
泉氏の城であったが、押し寄せる武田の侵攻に抗しきれず中野から高梨氏が退いてきて越後を頼って以降は、上杉の越後防衛の拠点として整備された。第5回とされる永禄7年の川中島合戦の際に改修された。
また、天正11年、景勝政権下の城代として岩井信能が信濃支配をめぐる北条徳川とのせめぎあいの中で修築、城下町の整備をおこない、上杉の信濃支配の拠点として機能した。
現地説明版に書き込み
謙信が拠点とした頃は、北が大手門で、南は急崖を要害とした主郭を置き後堅固とし、北に二郭、三郭と梯郭式に郭を配し、北に厚い構えとなっている。
これは、南から進攻する武田勢に対したもので、攻め口を西から北にまわらせることにより、越後からの後詰勢との挟撃を想定したものと思います。
南の大手門は景勝期もしくは江戸期の城下町整備とあいまってとりつけられたものと思います。
南から進攻する武田勢は、東(右)は千曲川のため、攻城勢は西から北にまわりこんで布陣しなければならない。
飯山城の西から北は高地がせまり、狭隘な低地に陣取ることになる。富倉峠を越えた越後からの後詰勢は、攻城のため布陣する武田勢の背後高地から襲い掛かることができる。ちなみに春日山から飯山城までは2日で到着できる。2日で落とすことができなければ、越軍後詰勢と飯山城とに挟撃されることになる。永禄11年の武田の猛攻も、越後からの後詰を避け退却したものと思われる。
毛見城の記事で越後勢の後詰布陣を書きました。参照ください。
北面
かなりの急崖
写真右部から入る道が謙信時代の大手と思います。
北の門付近
現在は観光用に西から、もしくは南から市民会館のあたりに入り、主郭へ入ることが多いようですが、そちらからだと味気ないです。城好きな方は、この北大手から入ると越後防衛の拠点城郭としての梯郭式の厚い構えを感じることができます。私も高校生の頃訪れた時は、味気ない面白みのない城、という印象でしたが、山口城、毛見城と平成24年に訪ね、この口から登って認識が一変しました。
北門から入り登り進むと、見えない先で降り西曲輪、三郭への三叉路になります。
攻城兵からは見えない、降りた先が三叉路
右に進むと西曲輪、左に登ると三郭
三叉路頭上は主郭ー二郭西下の帯郭
頭上の帯郭
頭上から攻撃を受けながら三郭、西曲輪で進みます。
この三叉路、かなり危険な仕掛けに思えます。
三郭へ登る道
三郭
広い
籠城兵だけでなく、信濃へ進撃する越後勢を収容できる
三郭から北を見下ろす
三郭ー二郭の切岸
重厚感さえ漂う
二郭
二郭から主郭へは石垣で固められた、枡形虎口を経て入る
二郭から東、千曲川側の急崖
岩井城を目視。
では主郭をめざし枡形へ向かいます
枡形入口
狭さがいい
枡形内
左へ折れ、もう一回左へ折れます。
なかから
うえから
飯山城主郭
その2では北以外を辿ります。
参考文献 志村平治 信濃岩井一族
アドバイス 馬念さん