毛見城遠景
飯山城まで直線距離約5kmの至近に位置し、飯山城と越後国境を目視できる武田の最前線要害です。
善光寺平の支配を固め越後に迫る武田勢は、支配拠点を海津城から長沼城に進め、替佐―壁田―毛見に前線を張り上杉方の最後の拠点飯山城を圧迫しました。
毛見城には、もと志久見郷の領主で武田に従属していた市川氏が入り、普請整備し、飯山城の上杉方に備えたとされます。
林道が通っていて、比高120m下まで行けます。
左手に日向城の標柱があります。
しかし、道は…?
ここでいいのか不安になりますが、標柱もあることですし、持参した馬念さんの地図を手に、信念を持って直登。 途中、よこからなにやら気配と視線
模型か?んなわけない。リャマか?いるわけない。
野生のやぎか?黒くないから襲われはしないだろうと直登再開
なんでここに倒木?ふしぎです。
遮られているのですが、性分なようで、なにやら城道のような気がしてきて希望が芽生えました。
登ること15分くらい
土塁に遭遇
主郭前面の堀切の前に立ちはだかります。
北(左)隅が途絶えていて、そこが虎口のようです。
北面
虎口の先、主郭横に一段削平地があります。
右に折れると主郭前面の堀切
主郭前面の堀切
右は先ほどの主郭前面の土塁
主郭
奥に土塁
その裏、主郭背後にも堀切があります。
主郭土塁から背後の堀切
堀底から
右が主郭
わかる遺構は以上でした。
もどりつつ主郭前面の写真をもう一枚
主郭前面
堀切と土塁
永禄十年と比定される、市川信房に与えた城中覚書きの一条目に「城内昼夜用心・普請等、弥不可有由断事」
とあります。市川配下の番衆で昼夜用心し、普請をおこなったのでしょう。
また4条目には「越国之模様、入于念聞届、節々注進事、」とあります。
毛見城からは、飯山城が目視できます。(写真は林道から撮りました)
背後の山の向こうは越後。
永禄11年(1568)7月、長沼城に集結した武田勢は、3月に越後揚北で謙信に叛旗を翻した本庄繁長に呼応し、飯山城を攻めます。
この武田勢の飯山攻め長沼集結に対し、輝虎の手厚い布陣が書状からわかっています。
飯山城に在城衆に加え岩井信能、安田惣八郎を送り込み、さらに「飯山江者、新発田・五十公野・吉江佐渡守相移候」また越後国内側の関山に、宝蔵院、宇佐美、平子、須田、黒瀧衆に加え「関山の新地へ者、十郎方・山本寺・竹俣・山岸・下田衆相籠候」 「此外旗本之者共十騎十五騎、両地江為横目入置」 謙信の手勢として「手前ニ者山吉・河田・栃尾衆」を置き厚く備えました。
10日の戦闘は激しかったようだが、落とすことはできず、越後からの後詰を避け、武田勢は下旬に退却しました。
春日山からの後詰めは、飯山まで2日で到着可能。
毛見城が耳目となり、越後の厚い後詰勢の様子を探っていたからでしょう。
退却した武田勢は、矛先を南に変え、駿河へ侵攻します。輝虎は叛旗を翻した本庄へ向かいます。
参考文献 志村平治 信濃岩井一族、上越市史、
柴辻俊六 甲斐武田氏の北信濃進攻と支配実態
資料提供・アドバイス 馬念さん
この武田ー上杉の境目、もっとすごい武田の城がありました(平成28年1月30日追貼)。
平沢城です。