日向城・別名毛見城、計見城(長野県木島平村) | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

毛見城遠景
イメージ 1
 飯山城まで直線距離約5kmの至近に位置し、飯山城と越後国境を目視できる武田の最前線要害です。
 
イメージ 2 
 善光寺平の支配を固め越後に迫る武田勢は、支配拠点を海津城から長沼城に進め、替佐―壁田―毛見に前線を張り上杉方の最後の拠点飯山城を圧迫しました。
 毛見城には、もと志久見郷の領主で武田に従属していた市川氏が入り、普請整備し、飯山城の上杉方に備えたとされます。
 
イメージ 9
林道が通っていて、比高120m下まで行けます。 
このあたりhttp://yahoo.jp/CBEDSI
左手に日向城の標柱があります。
 
イメージ 10
 
イメージ 11
しかし、道は…? 
 ここでいいのか不安になりますが、標柱もあることですし、持参した馬念さんの地図を手に、信念を持って直登。 途中、よこからなにやら気配と視線
イメージ 12
模型か?んなわけない。リャマか?いるわけない。
 野生のやぎか?黒くないから襲われはしないだろうと直登再開
 
イメージ 13
なんでここに倒木?ふしぎです。
遮られているのですが、性分なようで、なにやら城道のような気がしてきて希望が芽生えました。
 
 登ること15分くらい
 
イメージ 14
土塁に遭遇 
主郭前面の堀切の前に立ちはだかります。 
北(左)隅が途絶えていて、そこが虎口のようです。
 
イメージ 15
北面
 
イメージ 16
虎口の先、主郭横に一段削平地があります。 
右に折れると主郭前面の堀切
 
イメージ 3
主郭前面の堀切 
右は先ほどの主郭前面の土塁
 
イメージ 4
主郭 
奥に土塁
その裏、主郭背後にも堀切があります。
 
イメージ 5
主郭土塁から背後の堀切
 
イメージ 6
堀底から 
右が主郭 
わかる遺構は以上でした。
 
もどりつつ主郭前面の写真をもう一枚
 
イメージ 7 
主郭前面 
堀切と土塁
 
 永禄十年と比定される、市川信房に与えた城中覚書きの一条目に「城内昼夜用心・普請等、弥不可有由断事」
 とあります。市川配下の番衆で昼夜用心し、普請をおこなったのでしょう。
 
また4条目には「越国之模様、入于念聞届、節々注進事、」とあります。
 
毛見城からは、飯山城が目視できます。(写真は林道から撮りました) 
背後の山の向こうは越後。 
 永禄11年(1568)7月、長沼城に集結した武田勢は、3月に越後揚北で謙信に叛旗を翻した本庄繁長に呼応し、飯山城を攻めます。
  この武田勢の飯山攻め長沼集結に対し、輝虎の手厚い布陣が書状からわかっています。 
 
飯山城に在城衆に加え岩井信能、安田惣八郎を送り込み、さらに「飯山江者、新発田・五十公野・吉江佐渡守相移候」また越後国内側の関山に、宝蔵院、宇佐美、平子、須田、黒瀧衆に加え「関山の新地へ者、十郎方・山本寺・竹俣・山岸・下田衆相籠候」 「此外旗本之者共十騎十五騎、両地江為横目入置」 謙信の手勢として「手前ニ者山吉・河田・栃尾衆」を置き厚く備えました。
  10日の戦闘は激しかったようだが、落とすことはできず、越後からの後詰を避け、武田勢は下旬に退却しました。 
 春日山からの後詰めは、飯山まで2日で到着可能。
 毛見城が耳目となり、越後の厚い後詰勢の様子を探っていたからでしょう。
 退却した武田勢は、矛先を南に変え、駿河へ侵攻します。輝虎は叛旗を翻した本庄へ向かいます。
 
 
参考文献 志村平治 信濃岩井一族、上越市史、
      柴辻俊六 甲斐武田氏の北信濃進攻と支配実態
 資料提供・アドバイス 馬念さん
 
この武田ー上杉の境目、もっとすごい武田の城がありました(平成28年1月30日追貼)。
 平沢城です。