★大熊ー市川繋がり(箕冠城・仙当城その3として) | えいきの修学旅行(令和編)

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 箕冠城に立って数週間後、志久見郷に入り仙当城を訪れた。
 弘治二年(1556)の大熊氏の離反は市川氏が手引きしたのではないか、という思いが湧いた。
 箕冠城は越後大熊氏の居城。
 市川氏は文永十一年(1274)志久見郷の地頭職を認められて以降志久見郷に栄え、高井郡北部に勢力を広げ、戦国期は甲斐武田家に従属した信濃の国人領主。両氏は関田峠(大明神峠)をはさんで隣接し、越後、信濃に蟠踞していたことになる。
 そんな妄想をあれこれ考えている最中、片桐昭彦(2010)「越後守護上杉家年寄の領主的展開ー越後・信濃の市川氏を中心にー」という論文で大熊氏と市河氏との繋がりに関しても論じられていることを知り、読ませていただきました。その論文を基に繋がりを探ってみます。
 
 まずは地図的なことから
 
 イメージ 1
○箕冠城の大熊氏は、もとは信濃大熊郷を領したが、高梨氏に追われた失っていたようです。

○志久見郷は仙当城周辺で概ね合います。志久見郷に栄えた市河氏は、関田峠をこえた越後側の山麓に広がる物部郷にも所領を有し、また関田峠の信濃側小穴川の関所を握っていました。(武田従属後は、志久見郷から退き、毛見城のあたりで上杉方の拠点飯山城に対する武田方最前線に張る。後御館の乱後に志久見郷を回復)

○今井城より越後内の琵琶懸城、犬伏城周辺の妻有郷と、さらに越後国内深く古志長尾圏内にも、市河氏の所領がありました。(分家かもしれません)
○市河氏の戦国期当主信房は、坂戸城周辺を支配する上田長尾政景の妹を室とし、娘を春日山長尾為景の子直峰城主長尾景明に嫁がせています。
 
 
次に戦国期の動向から。
○大熊氏は高梨氏に信濃大熊郷を追われていることから 大熊vs高梨
○市川氏は志久見郷から高井郡北部に勢力を広げ高梨氏と接し対立。市川vs高梨
○大熊氏は越後守護上杉氏に属し、房能に下剋上する守護代長尾為景とは反目したと思われる(これは推測)。 大熊vs春日山長尾
○春日山長尾は高梨氏とは縁戚で、高梨氏は房能ー為景の争乱では為景方として密接に協力。房能仇討に越後入りした関東管領上杉顕定を長森原で討ち取ったのは高梨勢。 春日山長尾ー高梨
○古志長尾と春日山長尾も縁戚で長尾為景は古志長尾娘を室(景虎(謙信)の母)とする。房能ー為景の争乱では為景方として密接に協力。春日山長尾ー古志長尾
○越後市河氏は永正の乱では房能方につき春日山長尾ー古志長尾に敵対したようで、古志郡内の所領を没収され、古志長尾房景に与えられている。 市川vs古志長尾
○古志長尾と上田長尾は対立関係にあり、永正の乱では古志長尾は上田長尾に栃尾城を奪われ、蔵王堂から逃げたこともあるなど、深刻な敵対関係。古志長尾vs上田長尾
○春日山長尾と上田長尾も天文二十年(1551)、政景が景虎に降伏するまでは対立関係。春日山長尾vs上田長尾
○市川氏は上田長尾と縁戚関係にあり、ともに春日山長尾に対抗。市川ー上田長尾
 
一時的な相反はあるが、上記を整理すると、おおむね大熊ー市川ー上田長尾という繋がりと、高梨ー春日山長尾ー古志長尾という繋がりに区分けできる。
 
 弘治二年、大熊氏が長尾景虎に背き越中へ出奔、越中から越後へ攻め込み敗れ甲斐武田へ身を寄せた同年、市川氏も武田へ従属した。私は繋がりはあったと思う。
 
 永禄十年、武田晴信は、市川信房に、信濃越後両国において祖父以来、信房が在所を立ち退くまで拘えていた知行を安堵し、越後国内妻有で旧領の他に三郷を与える判物を発行しています。
 
 信・越両国之内、祖父以来至于在所退出之砌、被拘来知行不可相違候、又越後妻有庄之内、旧領之他三郷出置候、但有被申掠旨者、重而聞合可加下知者也、仍如研、永禄十年卯丁
                                     六月十六日(花押)
                                     市川新六郎殿
 
 市川氏が、越後に所領をもっていたがそれを失い、武田に従属することにより旧領を回復し、さらに所領を拡大することを志向し、それを武田晴信も志向していたことがわかる。
 
 また市河氏は、上田長尾と縁戚関係を持てるほどの格式と力をもった領主であった。
 後年、天正十年(1582)武田滅亡時に、上杉景勝(上田長尾政景の子)は市川信房に「其方事、元来当方入魂筋目之儀候間、何篇之儀被申越、不可有別儀候」と書状を送っている。
 
参考文献 片桐昭彦氏(2010)「越後守護上杉家年寄の領主的展開ー越後・信濃の市川氏を中心にー」、『新潟史学』第63号,新潟史学会