その2では、郭2・郭3・搦手を辿ります。
その1で書いた記事と同じですが再掲します。
宮坂武男先生の縄張図に宮坂先生の郭番号(黄)、堀切カナを書き込んで掲載します。
白字の大手、搦手、A、B地点は私の説明用の記入です。
郭1北東にも郭2を配しています。こちらからの侵入も警戒したのでしょうか。ただ、郭2から郭1に入ろうにも道は見当たりません。郭1からの迎撃を受けながらまわり込んでも、Aの罠、反対は大堀キで行き止まりのBで、慄(おのの)く兵の心理がうかぶような残酷な終末が…
郭3と郭1は上幅約40mの大堀切クでガバッと隔てられ、一本の土橋(これが長い)で繋がります。繋がるというより綱渡りのよう。
搦手は、郭3の巧妙な虎口が待ち構えます。堀オ、カで狭められた土橋状の道は、さらに堀キで曲げられ、見えない虎口に入ります。
極めて危険なしかけの要害…です
郭1の北東に郭2が配されています
郭1の北東部に、なんとなく枡形のような地点があります。
ですが、道の痕跡を想わせるものはありません。
メンテなど、必要時にここから梯子でも架けて連絡したのでしょうか。
私たちは、危険ですが隅から斜めに降りました。
郭2
左手前は堀シの上端
広さがあり削平もされているので、なんらかの利用もされていたのでしょうか。
郭2から郭1を見る
城道は見えません。
ここに侵入しても郭1の切岸が立ちはだかり、郭1から撃たれます。
左から回り込むとすると土塁奥はB、右からまわりこもうとするとその1で紹介したA地点です。
左に行ってみます。
堀切で狭められた土塁に切り口があり、一見帯郭状のBに道は続きそうです。
迎え撃つ兵が隠れる郭にも思えますが…
帯郭状のB
右上は郭1
登れません
左は崖
B南西端は郭1と郭3を隔てる大堀切ク
つまりBからはどこへも繋がりません。
逆襲兵が待機していても逃げ場がありません。ので、逆襲兵の隠れる郭ではないでしょう。
ここへ侵入した攻城兵は頭上の郭1から撃たれるのみです。郭2にもどるにしても撃たれ続けるばかりです。
郭2下を右へ回り込んだ場合は、その1で紹介したA地点で、窮地にたちます。
北東から侵入した兵はこれら恐ろしい郭2、A,Bの罠に嵌ります。
郭1から見下ろしたA地点
左下は堀エ、右はス、セ、ソ、タの竪堀群で動きがとれません。
郭1から郭3、搦手へ向かいます。
郭1から土橋(右下の雪は堀エ)
郭3とは綱渡りのような土橋で繋がります
郭3
なんとなく二段になっています
郭3から郭1をみる
上幅40mの大堀切キが、ガバっと隔てています。
あまりの大堀切に立ち尽くしてしまいます。
そういえば犬伏館の北にも、このような大堀切があります。
郭3から堀エを隔てた西エリアは瘤状に刻まれています。
防御遺構というより、使用できないようする処置と思います。
堀エの上端は、堀切オと土塁状に敷い、留められています
右が堀オ
左が堀カ
オとカはU状に繋がります
カはさらに上に伸びて、郭3から搦手の湾曲した土橋をつくります。
堀カがつくる郭3搦手土橋
では搦手を
搦手
堀カと堀キで湾曲させた土橋で入ります。
湾曲と土塁により虎口は見えにくくなっています。
郭3虎口
堀カとともに湾曲土橋をつくる堀キ
郭3から見ると湾曲し虎口へ入るのがよくわかります。
いかがでしたか、仙当城!
参考文献 宮坂武男 仙当城
帰路、地元の方々が、登り口に木橋を架け、宮坂氏の説明版を設置していました。
なんと、仙当城にとって記念すべき木橋の渡り初め、私達です。
以下、私の愚考する推論でまとめます。
この極めて攻める者には危険で守る側には堅固な要害、仙当城は、このような位置にあります。
白字は上杉方、赤字は武田方、水色線は信濃川(千曲川)で、謙信は飯山城を居城春日山城のある頸城平防衛の前線拠点としていました。
武田方は替佐ー壁田ー毛見城を飯山を攻略する前線としていました。飯山城は千曲川左岸、壁田、毛見城は千曲川右岸です。つまり飯山の右岸は武田方の勢力下です。右岸をそのまま千曲川沿いに進めば越後国中深く侵攻することができます。侵攻を許せば、謙信は越後勢を率い武田と戦う存在ではなく、頸城平の一国人になってしまう可能性があります。もちろん、謙信滅亡も…。仙当城(2020.2訂正城坂城)は上杉が絶対侵入を許してはならない越後防衛の最終拠点として築いたとすれば、この要塞機能も頷けると思います。
城坂城も書いてます。