上熊野城(富山県富山市上熊野) | えいきの修学旅行(令和編)

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 上熊野城は、南北朝時代から熊野郷八ヶ村の郷主二宮氏の城とされ、戦国時代は二宮左衛門大夫が居城した。元亀4(1569)上杉謙信が富山城を攻め、退く際に取立てた五ヶ所の向城の一つ二宮と推定される。
「…、稲荷・同岩瀬・本郷・二宮・押上向城、敵地之間上道弍半里又一里又十町之有処も候ニ押詰、向城取立、普請五日之内ニ出来、其上仕置申附、可納馬候、…」(上越市史1139上杉謙信書状遊足庵宛)  
   
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南から見た
上熊野城跡 
現在、浄蓮寺、神明社が在ります。
  
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浄蓮寺 
お寺の由緒と上熊野二宮氏及び上熊野城来歴が記された説明版があります。
左側の木立は神明社 
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浄連寺境内 
 南北朝の頃、越中守護桃井播磨守直常が朝廷に味方し足利尊氏を討つべく越中勢を率い京に上り合戦。二宮兵庫之介も従い奮戦するが桃井直常の身代わりとなり、討死。延元二年兵庫之介の菩提を弔うため叔父二宮祐源法師が佑屋坊として開基、後、文明年間に浄土真宗に改宗され浄連寺と改められた
 
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浄連寺の西となり
神明社 
左右奥に土塁と隅に櫓台が残ります。
 
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南東の土塁 
 
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隅の櫓台 
 
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南東の土塁と櫓台 
社殿右の尖った大石は、御神石と思われます。
 来歴説明版に、落城後村人達が戦死者の甲冑や刀槍などを濠跡に納め、太刀宮として祀った当時の御神石と伝わる、と記されています。
  
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御神石でしょうか 
 
 参考文献 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房
 浄蓮寺由緒 上熊野城説明板 
 上越市史