頸城と柏崎を隔てる米山の西麓は、柿崎氏の支配地で、柿崎氏の菩提寺楞厳寺、岩出城、雲門寺、米山寺館があります。米山寺城はその只中にあり、詰めの要害猿毛城をへて柏崎に通じる街道をやくす地にあります。
yahoo地図に柿崎氏関連の主な城館、寺院を書き込んであります
上越市史叢書9上越の城(以下、上越の城)では、柿崎氏に関係した城であったことは疑いない。天正6年(1578)の御館の乱が始まった時点では、米山寺城・猿毛城は景虎方の上杉憲藤の家臣「しの宮」が支配していた。同年6月上旬・景勝方の上野九兵衛尉が猿毛城を攻め落とし、「しの宮」が討ち取られた。この時、景虎方は防御施設の貧弱な米山寺城を、放棄し猿毛城で決戦に臨んだものと思われる。
とあるが、どうか?
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/00/c1/j/o0314023514510039952.jpg?caw=800)
遠景(南西から)
柿崎地区公民館黒川支所に車を停めることができます。ここhttp://yahoo.jp/ubjcqX
黒川小学校グランド背後の山は一部希望ヶ丘として学校の施設となっています。
その最高所から、さらに山中に7,8分ほど進むと米山寺城に辿り着きます。
道や遺構は整備されていません。とにかく尾根を降りずに奥に進んでください。それると遭難の可能性もあります。
希望ヶ丘 ![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/70/97/j/o0160012014510039953.jpg?caw=800)
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/70/97/j/o0160012014510039953.jpg?caw=800)
なんとなく道があります
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/1f/9f/j/o0160012014510039956.jpg?caw=800)
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/41/70/j/o0314023514510039960.jpg?caw=800)
尾根を進むこと7,8分。林道か?と思わせる西の横堀線が見えています。
下、左縄張り図は上越の城より引用しています。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/2a/9c/j/o0235024214510039965.jpg?caw=800)
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/e1/bd/j/o0235024214510039970.jpg?caw=800)
説明用に書き込み・私が見所と感じた箇所を囲ってあります。
見所 ○西は大手のようで横堀、竪堀を組み合わせ防御線を構えています。土橋の先は微妙に食い違います。
○ 南西の大堀切。
○ Ⅱ郭、主郭には内枡形虎口があります。
○東には畝型阻塞でまわり込みを防いでいます。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/46/d7/j/o0314023514510039973.jpg?caw=800)
林道のように見えた横堀
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/4f/3b/j/o0314023514510039977.jpg?caw=800)
北端
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/4c/ef/j/o0314023514510039982.jpg?caw=800)
大手土橋
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/43/6e/j/o0314023514510039985.jpg?caw=800)
土橋をわたって城内
高所が主郭
左がⅢ郭
右上がⅡ郭
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/05/f5/j/o0314023514510039991.jpg?caw=800)
土橋を城内から
微妙に食い違っています。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/e4/a8/j/o0314023514510039997.jpg?caw=800)
上写真の横堀の左は、横堀に竪堀がT字に組み合わさります。
左端(南)はⅡ郭から降りてくる竪堀に繋がります
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/87/44/j/o0314023514510040006.jpg?caw=800)
竪堀はⅡ郭下でLに折れ横堀となります。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/f1/cf/j/o0314023514510040013.jpg?caw=800)
もどってⅢ郭
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/74/4f/j/o0314023514510040018.jpg?caw=800)
Ⅱ郭虎口は内枡形
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/4d/af/j/o0314023514510040021.jpg?caw=800)
Ⅱ郭
33×23mと城内最大の郭
Ⅱ郭南は大堀切で断ち切っています
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/3f/33/j/o0314023514510040026.jpg?caw=800)
Ⅱ郭(左)南西の大堀切
堀幅14m、深さ4m、長さ65mの大堀切
Ⅱ郭と主郭の南東斜面は畝型阻塞が、まわり込みを拒みます。
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/28/c9/j/o0314023514510040033.jpg?caw=800)
主郭、内枡形
※米山寺城の虎口は、遠藤公洋(2004)「戦国期越後上杉氏の城館と権力」,p.13では、直方体虎口としているが、川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版,p.36では逆四角錐台形の典型としている。
Ⅱ郭から主郭へも、内枡形虎口を経て入ります
写真ではわかりませんが、堀切で土橋をつくり、内枡形に連結しています。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/80/e5/j/o0314023514510040040.jpg?caw=800)
内枡形と主郭
主郭は22×16m
主郭からは配する郭が見渡せます。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/8f/fc/j/o0314023514510040044.jpg?caw=800)
北東はⅣ郭
主郭とは、幅11m深さ主郭側6mの堀切で隔てられています。
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/56/5e/j/o0314023514510040051.jpg?caw=800)
北西はⅢ郭
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/60/27/j/o0314023514510040056.jpg?caw=800)
南西は内枡形を経てⅡ郭と繋がる
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d6/73/j/o0314023514510040065.jpg?caw=800)
南東は畝型阻塞
思いがけず、機能的な遺構が良く残るいい城でした。
私は、横堀、内桝形といった機能的な構造から謙信後期以降の比較的新しい時代の、かつ、普請は柿崎氏ではなく上杉直営ではないかと考えます。
謙信によって天正5年に柿崎景家が誅された後に、柿崎領を監視する意図で築かれ、さらに御館の乱を勝利した景勝が、豊臣政権下の近世大名として越後支配を進める過程で活用した城なのではないでしょうか。監視する代官が篠宮で、その配下はそれほど多くはなかっとしたら、少数の手勢で拠るには手頃なスケールです。篠宮討ち死に後は、千熊丸に再興が許された柿崎領の監視拠点として片桐が在番、存続機能したのではないでしょうか。
立地も、岩手城、猿毛城を結ぶ線に街道を扼して在り、繋ぐ(町史では同時に機能)というより、間に入って監視していたのではないでしょうか。
参考文献 上越市史中世史部会(2004)『上越の城』、みどりシステム
柿崎町史