要害山城は、武田信虎が永正17年(1520)、躑躅ヶ崎館の北1.8kmに築いた詰め城です。大永元年(1521高白斎記)(妙法寺記では永正17年)、駿河今川家の福島正成に甲斐国内に攻め込まれ、信虎夫人は要害山城へ難を避け、勝千代後の晴信を生んだと伝わる。信虎、晴信、勝頼の3代にわたって躑躅ヶ崎館の詰城として改修を重ね(設楽が原の敗戦後など)用いられました。後、徳川によっても手が加えられたようです。
積水寺のある西麓から主郭への道は、枡形風通路と門により通路が幾度も屈曲し、主郭へ辿りつくのは容易ではありません。背後の東方の尾根には武田侵攻地域の城で見ることができる尾根をザクッと掘り取って作った土橋(駿河丸子城)、進入路に立ちはだかる櫓台状の郭(上野鷹留城、信濃旭山城)、郭を守る馬出状の郭(丸子城)などの類似遺構をみることができます。
その1では、西麓(絵右下)から主郭までを巡ります。
麓の臨済宗積翠寺門前 場所はここhttp://yahoo.jp/9d5F9j
積翠寺にある信玄公像
城へは背後のホテル要害裏から登ります。
石段、いい雰囲気ですが、遺構か整備によるものかわかりません。
史跡境界となる地点で北に突出する郭があります。
突出部、崖。
要害度↑築城時の甲斐情勢を想います。
城道
城戸のような石組がありますが、遺構なのか整備なのかわかりません。
竪土塁が出迎えます。
このあたりから城内でしょうか。
Ⅲ’門
Ⅲ’内 枡形状
不動曲輪
不動明王が祀られています。
不動明王
雑感 郭名は、当時お堂があったというのではなく、後年安置されたことに由来するのでしょうか。
仁王立ち、不動立ち、って形容がありますが、不動立ちってこういうことでしょうか。
Ⅱ’門
櫓台を備える
戦国武田の城では、徳川の改修としている。
Ⅱ’奥の門
主郭までは、さらに小郭を辿り屈曲を繰り返し、幾重もの門が構えます。
曲輪の裾を通る
主郭南面
いよいよ主郭への虎口(破壊口?)
折れて
門(破壊?)
甲斐守護武田家
要害山城主郭
その2では主郭東の尾根を巡ります。
武田侵攻地域の城で見ることができる尾根をザクッと掘り取って作った土橋、進入路に立ちはだかる櫓台状の郭、郭を守る馬出状の郭などの類似遺構が面白いです。
参考文献 中田正光著戦国武田の城