竹さんの講演会 | えいきの修学旅行(令和編)

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 埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催された、竹さんによる中近世以降期東国の街道と城館-「小田原合戦史観」を問い直す-講演会に行ってきました。
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 竹さんは、関東における城郭史が、天正18年7月の小田原北条氏の滅亡により、それまでの北条氏拠点城郭が役割を終えて廃され、現在に至る後の徳川幕藩体制における城郭配置へと移行していった。という移行がスパッといったものではなかった。徳川氏による関東移封が当初から腰を据えた独自の徳川領国の形成を意図したものではなかったのでは、という史観を、当時の政治観と的確な史料を踏まえて講演されました。私は、ちょうど2週間程前に石垣山一夜城と小田原城を辿りブログ記事を作成したので、とてもリアルに脳裏に思い描くことができました。目から鼻へ抜ける竹さんの表情を観つつ聴き入り、いつしか竹史観に引き込まれ、あたかも豊臣秀吉配下の一吏僚となって奥羽をどう治めるかという事業に思いを巡らしていました。    
 
 
 
 
  講演内容を配布資料をもとに私なりにまとめてみました。
 
 
 
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○豊臣直営の拠点
秀吉は、小田原城落城と前後して小田原から会津へまでの道作と御座所建設などを命じます。徳川将軍家の御殿として捉えられていた府中御殿(東京都府中市)も、その際、豊臣秀吉によって奥羽への拠点として普請されたものと説きました。(秀吉吏僚太田一吉の動向より)
 また、小田原石垣山一夜城から天正十九年銘(天正十八年北条氏滅亡後)の瓦が出土していることも、一夜城は北条氏滅亡後も役割を担って維持されていたと説きました。  
徳川譜代大名の配置
天正十八年八月、家康は関東へ入部し、譜代重臣を領国境目(榊原康政―上野館林、井伊直政―上野箕輪城、本多忠勝―上総万喜城)に配置します。これは、豊臣対徳川の背景で徳川領国を守るための配置ではなく、秀吉の意向による奥羽へ向けた配置と説きました。
 
 小田原落城後廃されたとされる八王子城、太田金山城、松井田城なども徳川によって利用された形跡があるとのことでした。
 小田原落城で東国が治まったわけではなく、依然奥羽は不安定であり、実際に天正18年10月には大崎・葛西一揆が、19年2月には九戸政実の乱が起きます。
 秀次を総大将とし徳川勢が出陣しますが、その際、秀次により石垣山一夜城、府中御殿を拠点として利用されたようで、まさに竹さんの論説は的を得ていると思えます。
 
                   小田原合戦後の東国における政治過程
天正18.7.3 秀吉が小田原―会津間の「道作」および「御座所」などの建設を命じる。
     7.5 小田原城開城7.26秀吉宇都宮到着
     7.28 岩付―小田原間に御座所建設(府中御殿か)を命じる。
     7月中 上杉景勝、須田景実を番頭として八王子城での百日間の在番を命じる
     8.1 家康、江戸入城
          8.4以前 井伊直政、秀吉の命により上野箕輪城に入城
          8.7以前 本多忠勝、秀吉の命により上総万喜城に入城
     18年中 秀吉の養子になっていた家康次男秀康が結城家を継承する
          8.9 秀吉、会津黒川(会津若松)に到着。
          8.17 秀吉、府中に滞在か。
          9.1 秀吉、京都に帰還。
          9.21 上杉景勝、田中八郎次郎を番頭として八王子城での三十日間の在番を命じる。
          10.16大崎・葛西一揆が蜂起。
          12.18 秀吉、豊臣秀次、家康に奥羽出陣を命じる。
天正19.1.5 家康、岩付まで出陣
               1.10 豊臣秀次、相模早川(石垣山一夜城か)に着陣。
               1.14 秀次、府中(府中御殿か)まで出陣。江戸からきた家康と会談。
          閏1中旬 秀吉、尾張で大規模な鷹狩を実施。情勢によっては奥羽へ出陣の可能性。
         2月 家康、国替えの噂
         2月 九戸政実の乱が起きる。
         6.20 秀吉、秀次・家康らに奥羽出陣を命じる。
         7月 秀次、奥羽へ出陣
         8月中旬 大崎・葛西一揆が鎮圧
         8月 天正十九年銘の石垣山一夜城瓦作成される。
         9.6九戸政実の乱鎮圧
         11.3 秀吉、再び尾張で鷹狩へ出発。奥羽への示威。
         11月 秀次、小田原経由(石垣山一夜城利用か)で清須に凱旋
         12月 秀次、関白就任。
   
 私的に興味深いところ
 八王子落城後、景勝配下の越後勢が7月と9月に八王子の在番を命じられています。
9月の在番衆の名前を見ると、景勝直属の上田衆、なかでも佐藤甚助、穴澤、桜井といった廣瀬郷出身の面々の名が並びます。廣瀬郷の武士団は、謙信死後の御館の乱の際、景勝の出身地上田庄と隣接する景虎方の中心的支持母体であった古志長尾栃尾衆と熾烈な戦闘を行った、いわば景勝配下では最精鋭の武士団です。よほど激烈な戦闘を予測した在番だったのでしょうか。
 
 お時間ございましたら拙稿 廣瀬郷の御館の乱★http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/9166760.html
       その2http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/12570702.htmlもご覧ください。
 
 竹さん、素晴らしい講演ありがとうございました。有意義でした。