葛山城(長野市茂管)その1 | えいきの修学旅行(令和編)

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  天文二十二年(1553)、村上義清が没落(この年第一次川中島合戦)、翌二十三年には甲駿相三国同盟が結ばれ、武田の北信濃への侵攻が鋭さを増す。長尾景虎は善光寺を拠点に北の山岳地帯に山城を取り立て、防備を固めていたが、天文二十四年(十月二十三日弘治元年に改元)、武田晴信は善光寺別当栗田鶴寿を味方に引き入れ、「サケハリヲイル程ノ弓ヲ八百張、鉄砲三百挺入候」(妙法寺記)と、旭山城に篭らせた。これに対し、景虎は、旭山城と裾花川を挟んだ葛山城を堅固に取り立てて対峙した。閏十月三か月に及ぶ対陣は駿河の今川義元の仲介で和議を結び両軍は撤兵した。和議の条件に旭山城の破却があった。(第二次川中島合戦)
 弘治三年(1557)二月、信越国境が雪で閉ざされた時期に、馬場信春に率いられた武田の大軍が葛山城を攻囲。越後からの援軍はなく2月15日城将落合備中守は討死、葛山城は落城した。
 色部弥三郎に宛てた長尾景虎書状に
「信州鉾楯之儀、去々年以駿府御意を以、-中略- 今度晴信出張、落合方家中引破候故、葛山之地落居、依之嶋津方も大蔵之地へ先以被相移候 -後略」とある。
 葛山落城により、千曲川西岸に勢力をもっていた長沼島津氏も大倉に退き、後に越後に落ちます。葛山衆と島津氏は善光寺権益をもって繋がっていたのではないでしょうか。
 後年、織田信長滅亡後、川中島を支配した上杉景勝幕下に、信濃侍中島津淡路守抱として桂(葛)山衆がみえます。
 
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裾花川よりのぞむ葛山城
 

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裾花川こしにみる、対峙した旭山城
 
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葛山中腹にある静松寺。
落城に際し、武田からの落合氏庶流への調略に与したり、城の弱みを吐くなどしたという伝承があります。
ここから城への登山道があります。
主郭まで私は25分ほど。
 
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登城路
けっこうきつい。
 
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折れに竪堀が走ります。
 
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縄張り図は、中田正光著 戦国武田の城から引用し、私見を書き込んでいます。
紫線が静松寺からの登山道です。
主郭東下、祠のある鞍部に取り付きます。
その1では主郭、西の郭群。
その2で北尾根の郭群、東の尾根を辿ります。
東尾根には畝型阻塞様の構造がみられうようですが、藪でいまいちわかりませんでした。
 
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主郭南東下、鞍部に取り付きます。
左が主郭、右が東の郭群。
 
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祠のある鞍部
二重堀切で刻まれています。
 
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鞍部から主郭を見上げる
 
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大きな木をまわって主郭へ入ります。
 
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主郭南東からの虎口
 
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葛山城主郭(南東から)
祠、あづまや、案内説明看板がたちます。
 
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郭からみる旭山城
城の意味が絶妙にわかる。
主郭北にも北の尾根に向いた虎口がありますが、北の尾根はその2で辿ります。
 
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主郭からみる西の尾根方面
三重の堀切が尾根を切ります。
 
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主郭西、一重目堀切
 
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二重目堀切
 
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主郭西一重目堀切と二重目堀切の間からみる主郭
 
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小郭をはさんで三重目堀切
 
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三重目堀切こしに見る主郭方面
 
三重目堀切のさき三段の郭を経て、城の西を守る構えがあります。
 
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竪堀で抉られ、釣り針状に曲がります。
 
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この竪堀、けっこう怖い。落ちれば死だと思う。
どうやって掘ったのだろうか。
 
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外から。
もう少し左も写せばよかった…。
 
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その先、鉄塔たつ郭があり城外へ。
 
北の尾根郭群、東の尾根は、その2で紹介します。
 
参考文献 中田正光著 戦国武田の城 
       上越市史