縄張り図は戦国武田の城から引用し私見でブログ用に加筆してあります。
その1では、紫線の静松寺からの登りと、主郭、西の尾根の郭群をたどりました。
その2では北の尾根の郭群、東の尾根を辿ります。
縄張図から、主郭から西・東の尾根は堀切で断ち切られているのに対し、北の尾根は郭が段になっています。こちらが表(大手道)だった感じがします。
東は、畝型阻塞がみられると資料にありましたが、藪で確認できませんでした。越後の畝型阻塞より大きめの畝型阻塞様の土塁らしき遺構はありました。軍勢を展開させないという意図でしょうか。
主郭、討死した落合氏を祀る祠の前方には旭山城が見えます。
主郭北虎口
主郭を出てすぐ左へ折れ、二郭へでます。
主郭北虎口を外から見る
越後でよくみる内桝形があります。
内枡形の外、折れに石遺構があります。城門があったと思われます。
二郭
二郭のさき、倉屋敷といわれる郭だと思います。
落城時の焼米が出土する。
蔵屋敷とおもわれる郭から二郭、主郭をみる
倉屋敷とおもわれる郭と、その先北四郭を隔てる堀切。
二、三、北四、五、六郭の名は、主郭北の郭を紹介用に、主郭に近いほうから順に私がつけました。
蔵屋敷と思われる郭は三郭としました。
北四郭
中央やや左に五郭につながる小さな内枡形状の虎口がある。
内桝形状の虎口を経て北五郭
北五郭、北六郭は二段の馬出し構造に思えます。
侵入した敵を撃つ、もしくは反撃兵が待機する機能をもった郭と思います。
北六郭へは左手前から連絡します。
北の表の関門と思われる構造。
二重の堀切で二重の土塁壁を造り、北六郭への下は一方は竪堀へと繋がり、城道は北六郭に屈曲しながら入ります。屈曲の奥は小腰郭のようにも思えます。
北六郭から出る屈曲した虎口
北六郭したの一重目堀切
奥は竪堀となり斜面へ
土塁壁をつくる
一重目土塁壁よこからみた北六郭
道は右に登りながら進み、屈曲し六郭へ入る。
木のあたりが、二重目堀切
そとから
二重の土塁壁が構える
線なしもどうぞ
土塁壁の外、北七郭
左上に城外からの道を迎えている
城外へ
主郭東下の鞍部へもどり、東の郭群へ向かいます。
主郭東下鞍部から東の尾根方向への登り
こぶ状の道。
畝型阻塞上をアップダウンしているのかもしれません。
乗り越えます
東尾根(正確には南東)は、西、北尾根とは違い、藪化しています。
みどころのはずなのに…。
尾根の広い台地状の郭は、堀切というか土塁というか、大きな畝型阻塞のような構造が連続しています。
大きな阻塞間の堀切
畝型阻塞や構え様の虎口もあるようですが藪でわかりません。
東の尾根はやや横幅が広いように思えました。そこに攻城兵が取り付くのを防ぎ、動きを制限する意図でこのような構造になってるのでしょうか。また、藪が取り払われていれば、対峙する旭山城から見える方向ですので、要害を示威する意図があったのかもしれません。
現地説明版に、水の手が不利な城で、白米を馬に洗っているように流し、敵に水がふんだんにあるように見せたという伝承が記されていました。たしかに井戸遺構や沢はありませんでした。水はどうしていたのだろうか。
参考縄張り図 中田正光著 戦国武田の城 現地説明版を参考にしました。