替佐城(長野県中野市替佐) | えいきの修学旅行(令和編)

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温泉公園から見る替佐城

   史上名高い永禄4年の第4回川中島合戦以降、武田勢力は善光寺平を手中に飯山城を圧迫。千曲川対岸の壁田城とで現在も千曲川、上信越道、国道117号、JR飯山線を扼す位置に越後国境に迫る武田勢の要塞として、永禄7年頃築かれたとされる。斜面に縦堀と横堀を巧みに巡らし、主郭、二郭、三郭には安定した腰郭を備え、郭間は大きく深い堀切で断たれている。越後勢にひと郭獲られても、甲斐勢が後ろ巻きに来るまで抵抗を継続できる構造になっいるように見受けられる。そうとう堅固な普請である。これほどの山城でありながら上野の小幡上総介が城将であったと伝わる以外、城に関する伝承はないらしい。

信濃最奥野尻湖周辺  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898135.html

甲越最前線https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881526.html

                                         をご覧ください。

 

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 私の辿ったルートです。駐車場から西に登り、主郭二段下の腰郭を西から二郭北下へ周り、五輪塔のある郭→馬蹄段→えびす神社→水の手→大手と思われる御馬出し付近へ降りました。斜面を横切り、南西の十字堀へ出、三郭へ登りました。三郭と二郭の間の堀底に、大手からの道が厳しくも美しい折れを経て迎えられていたようです。二郭→主郭と辿りました。
 
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駐車場の南西は城代畑と伝わります。
城代の居住区だったのでしょうか。
 
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6月の夏草を掻き分けながら西をまわると、切り通しの関門のような箇所に出ます。
 
そこを抜けると
 
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主郭二段下の腰郭に出ます。
きれいに削平され安定的な広さがあります。
北西が搦手方面なのですが、夏草が盛んで突入は躊躇しました。
季節を改めて行ってみたいと思います。
 
ぐるーっと腰郭を北へ周り、
 
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途中、主郭と二郭を分断する堀切が北に竪掘として落ちるところを渡り、二郭北下の腰郭へ。
 
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ニ郭北下の腰郭は土塁が巻きます。
腰郭の先、北東の尾根に五輪塔のある土塁つきの郭があります。
 
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五輪塔はどういう由来のものかはわかりません。
 
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尾根は馬蹄段に削平されています。
 
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えびす神社のある郭。
南西10mほどに水の手があります。
 
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水の手付近。
水の手を西に登ると三郭と二郭の間の堀切に向かう大手筋と思われます。
南東下が御馬出しと伝わる大手です。
 
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水の手下、大手方面。
 
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御馬出し付近。
馬出し構造はわかりません。
 
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大手前、馬場付近。
右は上信越道。
 
三郭下の城域南斜面には、水を溜めた横堀と竪堀が十字に交差し、さらに放射状に竪堀が走ります。
 
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斜面に水を溜めた横堀。
いい色の水です。
 
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竪堀と横堀が十字に交差しているところ。
わかりいくい。
すみせん。
 竪掘りの放射地点は三郭二段下の腰郭です。
 
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放射する竪掘
 
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放射段から三郭を見上げる
 
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三郭
きりんが…
 
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 三郭北東隅に一段低くなった区域があり、大手からの道を迎え入れる枡形かと思いましたが、道は入らず併進し、二郭と三郭間の堀底へ入るようです。
 
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厳重に折れる。
正面上部がうえの写真の区域。
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線なしもどうぞ。
 
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三郭とニ郭の堀底に入る。
 
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ニ郭
土橋で二つの郭が連結している。
 
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ニ郭から主郭を見る。
掘底から主郭へは坂を3回折れる厳しい虎口で入ります。
 
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主郭からニ郭を見る。
ニ郭と主郭を隔てる大堀切。
右がニ郭。
主郭がわの堀底からは直線で上がるように見える。
ニ郭から主郭へは厳しく3折れ(攻めにくく)、主郭からニ郭へは直線(攻めやすく)ということか。
ただし、この直路は当時の進入路ではないかもしれません。
 
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替佐城主郭
上杉はなぜ海津城や、この替佐城の普請を妨害しなかったのか。
できなかったのか。
 
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城下には城下町まであったようです。
城下、安養寺。
城との関連はわかりませんが、上級武士の館跡、もしくは政庁の跡の雰囲気を感じました。
 
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御本堂には平成21年8月の災害復旧工事寄附者御芳名が掲げられてありました。