川中島の戦いとして著名な、信濃を北進する甲斐の武田と、武田に領地を追われた信濃の国人諸将が頼った越後の長尾(後の上杉)が、熾烈な争いを繰り広げた北信濃を修学旅行してみました。すぐ近所ですが。
北信濃の地図です。
上信越道は砥石城、葛尾城、海津城も間近を通りますが、北信も城を縫うように通っています。ルート選定者はマニアなのでしょうか、城地選定が妙だったのか。
白字は上杉方の国人と前線の城。ただし、高梨氏は本拠中野を退去し、かろうじて飯山城を保っていました。井上、島津氏は領地を追われています。
赤字は武田方の国人と前線の城です。芋川氏は武田に属していました。永禄4年の名高い川中島の戦い以降、武田は替佐城を前線の要に、古海城、壁田城を補強し、赤線を軸に飯山城を、いや信越の国境を圧迫したようです。実質的に北信濃は武田の勢力下に置かれていなければ、替佐城ほどの強固な普請は行えなかったことと思います。善光寺も川中島も海津城も、既に後方地帯です。 修学してみて、これほどまで武田勢力が突き進んでいたとは…。私の住む春日山は上杉ご当地の為、川中島の戦いは上杉びいきに解釈していますので。
野尻湖周辺は2016に改めて書きました。
★信濃最奥野尻湖周辺 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496898135.html
各城はこちらにどっさり https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881710.html
野尻湖北岸にある上杉方の前線、野尻新城。
藪で進入できませんでした。
2016書きました。
西面の大手門前の堀の痕跡。
湖中の琵琶島にも野尻城があった。弁財天が祀られていてた。永禄7年、武田勢に攻め込まれ、大般若経は武田勢により持ち去られている。まもなく野尻城は上杉に取り返されています。
古海城遠景。左後方に狢倉城があります。
野尻から飯山へ繋ぐ道と、芋川領内へ繋ぐ道が城下で分岐する要衝です。
馬念さんから頂いた宮坂氏の縄張り図と解説では甲州流をおもわせる放射状の竪掘り群があり、武田による改修が考えられよう。とあり、とすると古海城が武田勢力下にあった証拠。
それを見たくて突撃しました。
東麓から突入し、石塁のような遺構に出会い、おもわずゾクゾクしましたが、
山上を見上げると…。
季節を改めて再度攻城します。
2016書きました。
★古海城★狢倉城
芋川領と古海もしくは北国街道で越後を繋ぐ途上にある割ヶ岳城
甲越争奪が思われる。
飯山城に対する最前線、壁田城遠景。
もともとは高梨氏の支城であったが永禄7年頃には武田勢により改修され、前線を睨む城となる。
蛇行する千曲川に囲まれ、千曲川と現国道117号、JR飯山線を、千曲川対岸の替佐城と扼す。
信越国境に迫る武田勢力の要となる要塞、替佐城。
なかなか強固な普請がなされています。争いに最中、どのように築いたのか、不思議です。