韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて～Everlasting love～【朝鮮烈女伝異聞】
第一話 後編
嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴（ソン・ソリョン）。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。
朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。
朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。
ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛
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断っておくが、コンは何も清廉潔白ではない。相手によっては、向こうの事情をすべて知りながら知らん顔で会話
し、向こうの出方を探るなど朝飯前だ。けれど、相手が雪鈴である場合に限り、それはできない算段だった。
コンは緩慢な動作で首を振った。
「いや、良い。この職務には守秘義務がある。たとえ雪鈴とはいえども、迂闊に政の話を洩らすわけにゆかん」
雪鈴はすぐに頷いた。
「申し訳ありません。出過ぎたことをお訊きしました」
コンは曖昧に笑った。
「いや、話をしようとしたのは俺の方だ」
続いて、彼が申し訳なさげに言った。
「やはり、今日は自分でも思いの外、疲れたようだ。済まないが、一人で考え事もしたい」
言えば、雪鈴は可哀想なほど慌てた。
「ごめんなさい。やはり、お疲れだったのですね。気がつかなくて」
雪鈴は、うす赤くなって逃げるように部屋を出ていった。
彼女が出ていった後、コンは文机に両肘をつき、今度は人目もはばからず、わしわしと髪をかき回した。
雪鈴に関することになると、どうして自分はこれほどまでに自制がきかない？ 初恋を知ったばかりの青臭い若造のように感情的になるんだ！？
かつては都の名だたる遊廓で妓生たちと流した浮き名の数は知れず、文陽君といえば、〝女好きの遊び人〟と不名誉な意味で名が知られていた。にも拘わらず、この都から遠方の田舎町に来てからというもの、まるで人が変わったかのように修行僧のごとく暮らしている。
そのせいで、女の扱い方も忘れ果ててしまったのだろうか。いや、雪鈴だけは他の女たちとは違う。けして〝扱う〟のではなく、心から大切に守りたい唯一無二の存在だ。だからこそ、余計に彼女を前にすると、とち狂って、馬鹿げたことばかり言ってしまうのだろう。
眼の届く場所に置いておきたいと言った口も乾かない中から、今度は出ていってくれと来た！
コンは幾つもの感情が交錯する心を自分でも持て余しながら、考えた。俺が望むのは、今でも彼女の気持ちだ。たとえ何がどうあろうと、雪鈴の想いを最優先してやりたい。その上で彼女を何ものをもから守りたいのだ。
ならば、やはり、ここは彼女の気持ちを尊重するべきだろう。彼女は愚かな娘ではない。彼女なりの考えがあり、まだ素性を明かすべきときではないと考えているのだろう。
何より、彼が素性を無理に暴けば、雪鈴は傷つく。役場で間接的に知った彼女の境涯は、それだけではや十分すぎるほど複雑で哀しいものだった。彼女に無理にそれらを訊き出すことは、確実に彼女の古傷を抉ることだ。コンはさんざん辛い想いをしてきた彼女をこれ以上、傷つけたくない、哀しい想いをさせたくなかった。
待とう。コンは彼女を半月余り前、河原で見つけた翌日に彼女が意識を取り戻した日を思い出した。スチョンはせめて雪鈴の家族にだけは無事を伝えてはどうかと話していた。
そんな乳母に、彼はこう応えたのだ。
ー本人が口にしたくないことを無理に訊き出すような真似はしたくないんだ。
あのときはまだ、雪鈴の身許は杳として知れなかったが、今は幸か不幸か、彼女が崔家の若嫁であり、追われる身であると知った。
そういえばと、彼は今更ながらに思い出す。あの時、スチョンはずぶ濡れの彼女を着替えさせていて、鞭打たれた傷を見つけたと話していた。
恐らく、彼女を鞭打ったというのも崔家の連中に相違ない。
ーもう殆ど癒えてはいましたけど、あれだけの傷じゃア痛んだと思いますよ。それにしても、誰の仕業でしょうね。若い娘のことですから、外聞の悪いことでもして、親が躾として鞭打ったか。
スチョンの言葉が耳奥で蘇った。乳母の推測に対し、彼は実の親が若い娘の身体に傷跡が残るほど打ち据えるものかと疑問を持ったものだった。
自分の推測はあながち間違ってはいなかったということだ。倅の後を追い自害せよと命じても、雪鈴はいっかな従わなかった。ゆえに、鞭打ってでも自害させようとしたのだろう。
ー許せない。
今日、堪え切れないほどの凄まじい怒りを感じたのは、一体何度目だろう。彼は両の拳に関節が白く浮き上がるまで力を込めた。
もとより雪鈴の込み入った事情を誰に話すつもりはないが、ただ一人、スチョンにだけは話しておいた方が良いだろう。彼女は貌も知らない実母に代わり、襁褓(むつき)にある時分から乳を与え育ててくれたひとだ。
スチョンならば雪鈴の秘密を他言もせず、今まで以上に彼女に何くれとなく気を配ってくれるはずだった。また、彼女を守るためにも、誰より信頼するスチョンの協力は絶対に必要であった。
再び春巡りて
コンの庇護の下、雪鈴の毎日はとてもゆっくり過ぎていった。何故かコンは雪鈴を絶対に外に出そうとはせず、ましてや一人での外出など論外と言わんばかりだ。
もっとも、雪鈴もまた屋敷の外に出るだけの勇気は持ち合わせていなかった。婚家の崔家はコンの屋敷からは離れているとはいえ、同じセサリ町にある事実は変わらない。
万が一、外に出て崔家にゆかりの者に貌を見られようものなら、すぐに知らせがゆくかもしれない。結果、雪鈴はこの居心地の良い屋敷から引きずり出され、今度こそ有無を言わさず殺されるに違いなかった。
雪鈴の素性が白日の下に晒されようものなら、流石にコンも庇いきれるものではないことも判っている。崔家の義両親の要求は雪鈴には理不尽極まりないものだけれど、両班の世界の常識では間違っていないからだ。
殊にコンは王族だ。王族が古くからのしきたりや常識を真っ向から無視したふるまいをすれば、非難の的になってしまう。
コンの気が進まなくても、立場上、彼は雪鈴を崔家に渡さざるを得ない。また、コンは雪鈴の縁者でもなく、世間的には何の関係もない人だ。単に優しさと同情で、一時的な庇護者になってくれているだけだ。
崔家とは正式な婚姻関係もあるため、義両親には息子の嫁であり、義理の娘たる雪鈴の身柄引き渡しを要求する正当な権利がある。
危険を冒したくはないので、言われるまでもなく雪鈴本人も屋敷の外へ出たいとは思わない。
そんな日々は、雪鈴にとって優しいものだった。真冬のただ中にコンに助けられ、この屋敷に来たときから変わらない。
一つ変わったとしたら、コンと過ごす時間が自然に長くなったことだろうか。彼が王族だと知るまで、コンは午前中の一刻ほど訪ねて他愛ない話をするだけだった。けれど、今は何かと理由をつけては繁く訪ねてくるし、コン付きの側仕えという名分を得て以来、必然的に彼の側にいられる時間は増えた。
朝の朝食時の給仕に始まり、彼が書をたしなむ際も常に側にいて、甲斐甲斐しく墨を擦ったり、書き終えたばかりの書を綺麗に並べて乾かしたりするのも雪鈴の役目になった。
時には雪鈴をモデルにして、コンが絵筆を取ることもあった。最初は恥ずかしいからと辞退しても、コンに頼み込まれ、つい引き受けることになった。