韓流時代小説 後宮秘帖
~逃げた花嫁と王の執着愛~
第三話 Temptation(誘惑)・後編
~こんな私があなたの側にいても良いのですか~
-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-
二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。
様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?
登場人物
イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗
シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)
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その一年後。
チェスンはソンに伴われ、郊外の山に立っていた。本来、王とその妃の外出には大勢の伴回りが付くものだが、ソンは即位した当初からお付きが付くのを仰々しいと嫌い、内官長をいたく困惑させている。
今回もたくさんの護衛をと懇願する内官長を振り切り、チェスンを愛馬の前に乗せて単身で宮殿を飛び出していってしまった。この点はまったく変わっておらず、相変わらず内官長泣かせの王さまである。
小高い山は山というよりは丘という方がふさわしいかもしれない。丘の頂にはこんもりとした塚が見え、塚の側に立派な石碑が建てられている。誰かの墓だと判るが、かなり立派なものだ。今、国王知宗はその墳墓の前で拝礼を繰り返していた。
知宗―ソンは地面に額ずき、心の中で墓の主に呼びかける。
―許して下さい。あなたの一生を私の父が台無しにした罪は息子の私が背負います。あなたの子息をたとえ何があろうと生涯、守り抜きます。ゆえに、どうか安らかに永眠って下さい。
「義父上」
拝礼を終え、立ち上がったソンは墓に向かって深く頭を下げた。傍らで見守っているチェスンは涙が止まらない。
これまでの人生でいちばん幸せなこの日に泣くのは止めようと思っていたのに。
年が明けた今年早々、チェスンは養父キム・ヨクの屋敷から宮殿に戻った。国王はチェスンを復位させ、従二品淑儀の位階を与え、更に非業の死を遂げたチェスンの実父ソン・ソンジュン に赦免の沙汰を下した。
ソン・ソンジュンは今から二十四年前、大逆罪で処刑された罪人だった。知宗はソンジュン の罪はすべて冤罪であったと公表し、彼の復権を認めたのである。更に今年の秋の吉日を選び、淑儀シン氏の王妃冊立の儀式が行われ、新しい中殿の誕生に伴い、晴れて無罪となった王妃の実父ソンジュンにも府院君(王妃の父)の称号、また実母にも府夫人(王妃の母)の称号が追贈された。
府院君となったソンジュンの墓が新たにこの場所に設けられ、知宗はまた府夫人、チェスンの母が眠る寺の墓所も大々的に改築し、立派な墓を造営した。チェスンの母は出産し亡くなった最後の住処となった寺に葬られていたのだ。
ヨクの屋敷から宮殿に戻ったその日、チェスンの新たな住まいとなる殿舎の前では、かつてチェスンに仕えていた女官一同が整列して主人の帰還を待ちわびていた。
忠義者の崔尚宮は女官たちを率いて筆頭におり、チェスンの姿を遠目に見ると駆け出した。チェスンもまた走り出し、二人が抱き合って再会を歓び合ったのは言うまでもない。
チェスンの復位を誰より歓んだのは、実のところ、若い主君に母のような情を抱いた崔尚宮であったかもしれない。チェスンを抱きしめた崔尚宮は声を上げて泣いていた。
そう、我が身は名実共に、この国の王妃となった。一国の母という立場を考えただけで、その重さに押しつぶされそうになる。どれだけ女性らしく装っていたとしても、この身は女ではなく、正真正銘の男だ。人は騙せても、天は騙せない。この国の民を騙して中殿という至高の地位についたことで、いつか天罰を受けるかもしれない。
それでも。チェスンはただ一人の愛する男の側に立つと決めた覚悟を悔いはしない。天罰を受けるとしても、そのときまで粛々と王妃としての務めを果たし、民のために尽くし、王であるソンを支えてゆくつもりだ。
ソンに続いて、チェスンが拝礼を行った。その後で、チェスンはふと丘の片隅―右前方を指した。父の墓の向こうに枇杷の樹がひっそりと佇んでいる。折しも十二月とて、枇杷はたくさんの小さな白い花をつけていた。
「殿下、あちらに」
ソンに言えば、彼もまた眼を見開いた。
「枇杷の樹か?」
二人はどちらからともなく手を繋ぎ、ゆっくりと枇杷に近づいた。
「奇遇だな。実は俺も初めて義父上のお墓詣りをしたんだが、ここに枇杷があるとは聞いていなかった」
「憶えていらっしゃいますか、あの日のこと」
問いかけると、ソンは笑った。
「もちろんだ。忘れるはずもない。枇杷の樹が俺たちを引き合わせてくれたようなものだからな」
「本当に、枇杷の樹が出逢わせてくれたのかもしれませんね」
十三年前、王と王妃は枇杷の樹の下で出逢った。思えば、あのときの出会いの日は一旦は途切れたように見え、この日の二人に続いていたのだといえる。
今日は二人とも王と王妃の正装ではない。傍目には仲睦まじい両班の若夫婦に見えるだろう。
「初恋が始まった場所というのも悪くない」
王が王妃のほっそりとした身体を引き寄せ、唇を重ねようとしたその時。
ニャアアと、猫の間延びした啼き声が割って入った。ソンが口を尖らせて足下を見下ろす。実は今日、ソンの愛馬に乗っていたのはチェスンだけではない。ちゃっかりと名虎もチェスンの懐に納まっていた。
ヨクの屋敷から宮殿に戻る際、もちろんのこと、愛猫も一緒に帰った。チェスンが中殿の住まい中宮殿に居を定めてからも、名虎は〝王妃さまのご愛猫〟として大切に飼われている。もう子猫ではなく立派な大人となった名虎は王宮で〝連れ合い〟を見つけ、今では四匹の子猫の父となった。
とはいえ、宮殿でそんなにたくさんの猫を飼うわけにはゆかないので、それぞれ猫好きの両班の屋敷に引き取られた。その中の一匹はソンの母大妃の許へ、更に一匹は今年の春、降嫁したソンの妹公主の嫁ぎ先に貰われている。
大妃はチェスンの本当の性を知らない。身体が弱く子ができないという理由も承知で、チェスンを嫁として認め可愛がってくれていた。名虎は時々、中宮殿を抜け出して大妃殿を訪れ、〝息子〟との時間を過ごしているようである。
子猫たちの母親は出産を終えてしばらくすると、いずこへともなく消えた。そのため、後宮の女官たちは生まれたての子猫の世話をするのに奔走せねばならなかった。
名虎はチェスンのチマの裾にしばし纏いついていたかと思うと、すぐに飽きて石ころを前足で突き始めた。
「面白そうだな、お前」
ソンも負けずに小石を靴の先で蹴り飛ばすのに、邪魔をされた名虎は玩具を横取りされた子どものように不満げに啼いて抗議を示した。
「名虎、悪戯しちゃ駄目よ、殿下も止めて下さいね」
名虎とソン、それぞれに向けられた言葉だったものの、ソンがそれこそ童のようにむくれた。
「何だか犬と同等に扱われている気がするんだが、俺の気のせいかな、中殿」
「さあ? 何のことでしょうか、国王さま」
チェスンが茶目っ気たっぷりに応えると、ソンの弾けるような笑い声が上がった。
二人と一匹が繰り広げる賑やかな光景を枇杷の樹が静かに見下ろしている。
一陣の風が吹き渡り、細やかな花びらが雪のように舞い上がる。ソンとチェスンはひとしきり美しい光景を眺め、互いに視線を合わせ微笑み合った。
不世出の聖君と朝鮮中の民から慕われた知宗大王と、ひとたびは廃されながら復位して中殿となった貞順王后の数奇な物語はここで幕を閉じる。もちろん、貞淑で美しい王后が実は男であったという秘密は、歴史を書き残した記録のどこにも一切見られない。
知宗と貞順王后の純愛は後々まで広く語り継がれることになった。それは幼い日に出逢った二人の初恋から始まった、永遠の愛の物語り―。
(完)