韓流時代小説 後宮秘帖~他の男と幸せになれ-優しい声で告げられた残酷な科白。廃妃の衝撃と哀しみは | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

韓流時代小説 後宮秘帖

 ~逃げた花嫁と王の執着愛~

  第三話  Temptation(誘惑)・後編

 

~こんな私があなたの側にいても良いのですか~

 

-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-

二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。

 様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
 果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?

 

 登場人物
  イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗  
  シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)

*****************************************************************


 実のところ、ソンより十以上は年長の職人は
―両班の旦那も惚れた女をモノにするには、それなりの苦労がおありなんでさね。まぁ、気張ってやりなせぇ、若い衆。
 と囁いて去ったのだが。もちろん、ソンは子細をチェスンに話すつもりはない。
 ソンは小首を傾げ、チェスンをしげしげと見つめてくる。チェスンは真っすぐな視線にたじろぎ、視線を揺らす。
 あまりにもソンへの想いが溢れ過ぎて、じいっとこのまま見つめられていたら、彼への恋心を彼に知られてしまうようで不安だった。
「少し痩せたのではないか?」
 唐突に言われ、チェスンはたじろいだ。
 確かに指摘されたように、宮殿を出てからチェスンはひと回り以上は痩せた。落ちた体重は一時に比べれば多少は戻ったものの、いまだに完全には戻っていない。
「ちゃんと食べているのか?」
 ソンの質問は続く。チェスンは頷いた。
「大丈夫です」
 ソンがフッと笑った。それは酷く淋しげな、ある意味、自嘲気味ともいえるものだ。
「そなたはいつも俺に大丈夫としか言わない。俺はそんなに頼りない、不甲斐ない男なんだうな」
 そんなことはないと大声で叫びたかった。側室であった頃、ソンは全力でチェスンを守ろうとしてくれた。御子がいないから新しい妃を娶るように臣下たちから薦められても、チェスン一人で良いと言ってくれたのだ。
 だからこそ、チェスンは彼の側に居てはならないと思った。彼が自分一人を守ってくれるからこそ、余計に彼のために自分は身を引かねばならないと。
 自分はどうなっても構いはしない。でも、大切な愛するソンだけは幸せになって欲しい、王としての道を立派にまっとうして欲しいと願った、だからこそ辛くとも、愛する彼の側から身を引いたのだ。
 けれど、今の自分の体たらくは何ということだろう。自ら別離を告げたというのに、いまだに彼を想い続け、日に幾度となく愛しい男の面影を瞼に甦らせている。
 想いに沈むチェスンを感情の読めない瞳で見つめ。ソンはしばらく何事か考えているようだった。やがて、ソンが片手を上げた。
「女将、済まぬが、追加で餡餅を頼む」
 ほどなく、女将が追加注文の品を運んできた。大皿にいかにも美味げな餅が盛られている。しっとりとやわらかそうな餅はふっくらとして、餡がたっぷり入っていそうだ。
「食べてごらん」
 促され、チェスンは今度も素直に手を伸ばした。手にした餅は見た目どおり、やわらかく、囓ると甘い餡の味が口いっぱいに広がる。
「美味しい」
 思わず笑顔になると、ソンの視線が花のひらいたような微笑に吸い寄せられた。
 ソンの前であることも忘れ、チェスンは餡餅をひと口ひと口頬張る。チェスンが甘いものが大好きなのは自他ともに認めるところだ。もちろん、ソンもよく知っている。だから、ソンは餡餅を頼んだのだが―、チェスンは彼の予想よりも旺盛な食欲を見せて餡餅を平らげた。
 丸ごと一個食べ終え、二つ目に手を伸ばしたところで、チェスンは我に返った。
「あ!」
 現実を認識し、狼狽え頬を染めた。
 そんなチェスンをソンは以前と同じ優しい眼で見つめた。
「構わぬ、遠慮せずにたくさん食べると良い」
 それでも、チェスンはもう手を出さず、うつむいているだけだ。ソンは笑った。
「久しぶりに逢うそなたがあまりに大人しくて、別人のように見えた。さりながら、やはり、変わっていない。良かった、少し安心したよ」
 チェスンは小声で言った。
「私はそんなに変わってしまいましたか、殿下」
 真正面から見つめると、何故かソンは頬を上気させ、眼を細めた。まるで、眩しい太陽を眼にするかのように。
「いや、悪い意味で言ったのではない。何と申すか」 
 ソンは言葉を句切り、言葉を探しているようだ。やがて、漸く探していた言葉を見つけたとでもいうかのように頷いた。
「俺の側にいたときより、随分と大人びたように見えたから」
 ソンは優しい笑みを浮かべ、手を伸ばした。それは無意識の仕草に相違なく、彼の手は明らかにチェスンの髪に触れようとしていた。が、その寸前、彼はハッと我に返り、手を引っ込めた。
 チェスンに食べろと勧める割に、ソンの前の汁飯は殆ど減ってはいない。チェスンが漸くそのことに気づいた時、唐突に彼が口を開いた。
「俺の後宮に〝シン・チェスン〟という妃はいなかった」
 ソンが与えたチェスンに与えた衝撃は計り知れないものだった。チェスンの眼が彼を射るように大きく見開かれる。
「それは、どういう意味でしょうか、殿下」
 声が、戦慄いた。
「そなたという妃が後宮にいたという記録を消すから、惚れた男と幸せになれ」
―惚れた男と幸せになれ。
 何という残酷な科白! チェスンは眼を見開いたまま、ひたすら茫然とソンを見た。
 チェスンの波立つ心なぞ知るはずもなく、ソンが淡々と続ける。
「俺の妃であったという記録が残っている限り、そなたは他の男には嫁げない。ゆえに、シン・チェスンは最初から俺の後宮に存在しなかったということにしてしまえば、そなたは本当に晴れて自由の身だ。今となっては俺になしてやれることは、この程度しかない。今までそなたを束縛して哀しませ、苦しめた。せめて、これから先は好きな男と幸せな人生を歩んでいって欲しい」
 これ以上はないというほど優しい声音がこれほど残酷な響きを伴って聞こえたことはなかった。
 ソンは想いを振り切るように勢いよく立ち上がった。
「今日は、そなたに逢えて良かった。良いか、幸せになるんだぞ」
 彼は女将を呼ぶと支払いを済ませ、チェスンの方を振り向くこともなく大通りに消えた。
 取り残されたチェスンは、魂が抜け出たかのようにその場に座り込んでいる。どれほどそうしていたのか、気が付けば女将が気遣わしげに立っていた。どうやら、次の客のために場所を空けて欲しいようだ。
 店は今が夕飯時とあって、先刻以上に混み合っていた。道端には順番待ちの客の姿も見える。
「ああ、済みません」
 チェスンは我に返り、慌てて立ち上がった。
「大丈夫ですか? 旦那さまと別れ話でもなさったのですか」
 女将が問うのに、チェスンは初めて気づいた。熱い滴が頬をすべり落ちている。手のひらで拭うと、確かに手は濡れていた。
 チェスンは女将に礼を言い、店を後にした。大通りははや、薄暗くなっている。冬の陽が落ちるのは早いのだ。
 早く戻らねば、養父のヨクも心配しているだろう。そう思っても、身体全体が重く石と化してしまったかのように動かない。
―あいつを連れ戻せるすべがあるなら、どんだけ借金して大枚払っても、連れ戻すよ。もう一度、あいつの顔を見られるなら、悪鬼にでも魂を売り渡してやっても良いさ。
 唐突に幼なじみのジャコビの言葉が耳奥でこだました。
 ジャコビの大切な妻は、哀しいことに、お産で亡くなってしまった。でも、チェスンの愛するソンは生きている。けれど、今のチェスンにとってソンはあまりにも遠いひとだった。
―そなたが後宮にいたという記録を消す。
 ソンから与えられた言葉が今も心に重くのしかかっている。 
―私が本当にお慕いしているのは殿下なのに。
 漸く判った。どれだけ離れよう、彼のために忘れようと思っても、自分のこの聞き分けのない心は彼を諦めもできず忘れられもしない。
 自分が好きなのはイ・ソンという男だけ。
 今なら、差し出された彼の手を拒みはしない。でも、もう遅い、遅すぎるのだ。気づくのがあまりにも遅すぎて、私は永遠に大切な男を失ってしまった。
 私は馬鹿だ。こんな大切なことに今まで気づかないなんて。
 本当に大切な宝物が何なのか。人は失うまで気づかないものだ。いつかどこかで聞いたような科白だけれど、誰から聞いたのか。
 チェスンは思い出そうとしても、思い出せなかった。チェスンは結い上げた髪からかんざしを抜き取る。それはソンが求婚した際、くれた蒼玉の簪だ。二人にとっては想い出の花でもある紫陽花を象った意匠デザインで、花びらの一枚一枚に玉がはめ込んである。
 チェスンは艶やかな髪から簪を抜き取り、それが愛しい男であるかのように愛おしげに指で撫でた。日暮れ時の忙しない時間帯とあって、目抜き通りは家路を急ぐ人たちでますます混雑している。
 気が抜けたように立ち尽くすチェスンの肩に、両班らしい老人がぶつかり追い越していった。
「殿下」
 チェスンは泣きながら紫陽花の簪を胸に抱きしめた。