その言葉に、家俊があっという顔になった。
端整な面に烈しい驚愕と衝撃が走る。
美空は良人の前に両手をついた。
「ご無礼の数々はどうか平にお許し下さいませ。さりながら、皆が質素倹約に励んでいる今だからこそ、上に立つ私たちが自ら身を正してゆかねばならぬときかと存じます」
家俊から、しばらく言葉はなかった。
奢侈禁止令を出しておきながら、自分の妻には豪華な笄を贈ったことを、その妻自身からやんわりと戒められたのだ。
己れは質素倹約を固く守り抜いても、妻への贈物についてはそこまで深くは考えていなかった家俊であった。
「―俺が愚かであった」
短い静寂の後、家俊はポツリと呟いた。
何か言いかけるように家俊は口を開いて息を吸い込んだが、そのまま困ったように眉を下げ、美空の顔と笄を交互に眺めて、吸った息を吐き出した。
「所帯を持ってからというもの、一度として身を飾るような物を贈ったことなぞなかった。ふと思い立って、作らせたのだ。そなたには似合うと思うたのに、少し残念だな」
照れたような笑いを浮かべる良人に、美空は微笑む。
「先ほども申し上げましたように、私は今のままで十分幸せにございます。好いた方のお側にいられるだけで良いのです、私はもう他に望むことはございませぬ。私は上さまから頂ける幸せは、両腕に抱え切れぬほどたくさん頂きましたゆえ」
「そうか」
家俊は頷くと、桜の笄をあっさりと袂にしまった。
「お怒りになられましたか?」
美空が問うと、家俊は笑った。
「いや、いかにもそなたらしい応えだ。確かに上に立つ者、ましてや、倹約令を出した俺自身が奢侈に耽っていては示しがつかぬな。俺の短慮であった」
家俊は機嫌を損じる風もなく、穏やかな表情で桜を見ている。
薄紅色の花たちがまるで手鞠のように群れ高まって咲いている様は、それこそ先ほど見たばかりの桜の笄を見ているようであった。
今日も江戸の空は蒼く澄んでいる。水底(みなそこ)のように深く澄んだ青空の彼方に、刷毛で描いたような白雲がぽっかりと浮かんでいる。
光を受けてきらきらと光る花が、春の風に小刻みに身を震わせている。地面に落ちた花の影が風が吹く度に、かすかに揺れていた。
家俊は風に吹かれながら、春の光景に見入っている。
美空は良人の横顔を眺めながら、ある物を懐からそっと取り出し、指し示して見せた。
「上さま、こちらをご覧下さりませ」
その言葉に何げなく振り向いた家俊が眼を見開いた。端整な顔に軽い愕きがひろがる。
「このようなもの、まだ大切に持っていたのか」
美空の白い手のひらの上に載せられていたのは―。そう、あの櫛であった。
朱塗りの地に控えめに白い水仙が描かれた蒔絵の櫛。まだ孝太郎と名乗っていた小間物売りに身をやつしていた頃、彼が美空に贈った櫛だ。
思えば、この櫛が二人を結びつけたのである。初めて出逢った日、自分が落としてしまった櫛を買おうとした美空に、そんなに気に入ったのなら、ただでやろうと言った孝太郎。結局、美空は、そのときは櫛を貰わず、今度孝太郎に逢うことがあれば買い取ろうと、いつも銭を持ち歩いていた。
そして、随明寺で運命の再会を果たした日。孝太郎が美空に贈ったのは、この水仙の櫛と柿本人麻呂の歌であった―。あのときから、二人の恋は始まった。
美空の顔に花のような微笑がひろがる。
「私にとっては大切な想い出の品でございますもの」
「そなたは真に変わらぬな」
家俊はそう言って、少し眩しげに妻を見つめた。妻を変わらないと言う良人もまた、このような情熱を秘めた瞳で妻を見つめるのも出逢った頃と変わらない。
「私はもう十分、身に余る幸せを頂きました。高価な笄や簪、豪奢な美々しい打掛、小袖、帯もすべて身に過ぎたものと心苦しく思うております。それに、私には、上さまより賜ったこの櫛一つさえあれば、それで十分なのです」
それは本心からの言葉であった。
惚れた男の傍にさえいられれば良い―、その想いだけでここまで来た美空であれば、本当のところ、家俊と三人の子どもたちの他には何も要らないのだ。
先刻から〝もうこれで十分〟と繰り返す妻を、家俊は笑いながら揶揄する。
「随分と欲のないことだな」
「いいえ、私は欲深い女にございますわ。ただ一人の、天下で唯一無二のお方をこうして独り占めしていたいと常に願うておるのでございますから」
「そのような願いであれば、幾ら願うたとて誰も困るまい」
家俊が心底嬉しげに言い、何かを思い出すような眼で呟く。
「それにしても、この櫛をそなたに与えたのは、まだ所帯を持つ前であったな。確か、もう六年前になるか」
懐かしげに語る良人に、美空も頷いて見せる。
「はい、まだ、上さまが小間物売りの孝太郎とおっしゃっていた頃のことにございます」
「あの櫛を贈ってからすぐに所帯を持ったのであったか。―徳平店の時分は、そなたにも苦労をさせた。辛い想いもしたであろう」
「お民さんや源治さんは、どうしているでしょうか」
美空の瞼に、もう久しく逢わぬ徳平店の隣人たちの面影が次々に甦る。お人好しでお喋り好き、いつも左官の源治に鹿爪らしい顔でお説教ばかりしていたお民、お民に言われ放題でも、適当に受け流しながら、あれで結構、口喧嘩を愉しんでいたらしい源治。
美空は徳平店で生まれ育ち、家俊(孝太郎)と所帯を持った直後の新婚時代を過ごしたのも、あの粗末な棟割り長屋であった。美空を育んでくれた懐かしい古巣であり、美空を温かく見守ってくれた心優しき隣人たち。
徳平店の人たちのことを、忘れることなんて、できるはずがない。
徳平店を出て五年、あの日々が今では随分と遠く思える。
こうして江戸城大奥という世間とは隔絶された場所に身を置いていると、あの頃が現のこととも思えず、夢の中の出来事であったようにも思えてくるが、そんなことはない。
お民は、源治は、美空の心に確かに生きていた。美空の想い出の中で今も生き生きと笑っている。
恐らく今でもお民は相変わらず人の好さを発揮し、他人の世話を焼いて、源治はそんなお民に小言ばかり言われているのだろう。
懐かしい―。本当にあの日々が愛おしい。
美空の眼に我知らず、熱いものが溢れた。
それでも、後悔はけしてしない。この男の―家俊の傍こそが我が身の居場所だと思い定めて、自分はここまで来た。
ひとたびは、家俊との間にゆき違いが起き、今度こそ別れなければならないかもと覚悟した。所詮、住む世界が違う人間同士、判り合えることはできないのかと絶望し、諦めようとしたこともあった。
それでも、二人を繋いだ縁(えにし)の糸は途切れる事なく、続いていたのだ。二人の何度も切れそうになった縁の糸を辛うじて繋いでいたのは、心であった。互いが互いを想い合う心。家俊の傍にいたいという美空の心、美空が家俊の傍から黙って姿を消したときも、美空を信じようとした家俊の心。
家俊を想う心だけを頼りに、流れ流されて辿り着いた場所がまさか将軍御台所という立場、江戸城大奥だとは流石に想像もしていなかったけれど。
でも、自分の選んだ道には悔いはない。
美空は今、はっきりと己れにも他人にも胸を張って心から言える。
美空は嫣然と微笑し、家俊を見上げた。
「私の想いは、あの頃も今も、少しも変わりませぬ。徳平店にいた頃も、上さまがいつもお側にいて下さいましたゆえ、辛いことを辛いと思うたこともございませぬし、今もこうして、上さまのお顔を拝見することができまする」
「―そうか」
家俊は頷き、ふと思いついたように言う。
「一度、徳平店の者たちのことを調べさせてみるか。何か不自由があれば、それとなく助けても良いのではないか」
その申し出に、美空は緩く首を振った。
「上さまのお優しきお心は嬉しうございますが、恐らく、徳平店の人々はそのようなことをなさって頂いても、歓びはしないでしょう。たとえ貧しくとも、町人には町人の、長屋暮らしの人々にはその人々の暮らしや誇りというものがございます。ましてや、私たちはかつては徳平店で共に店子として暮らしていた身、その私たちが救いや助けの手を差しのべることを、彼等が憐れみ、同情と受け取ってしまったとしたら、哀しいことになります。やはり、彼等はそっとしておいて差し上げるのが良いかと存じまする」
たとえその日暮らしの裏店住まいでも、彼等には彼等なりの矜持があり、徳平店には徳平店に住まう人たちの間に通じる暗黙の掟がある。互いに助け合い労り合っても、それはあくまでも同じ立場の者同士の助け合い。
昔のよしみだからとて、既に彼等とは遠く隔たった―それも天下人という立場の家俊が差しのべる手を、彼等はけして純粋な好意や親切とは受け取るまい。
「俺たちは、もう本当にあの頃の俺たちではなくなってしまったのだな」
家俊のそのひと言が、美空の心に滲みた。
そうなのだ。どんなに懐かしもうと、もう自分たちは二度とあの日々に、徳平店に帰ることはできない。今はただ、前を向いて進むのみ。
「―ほんに、あの頃は昔になってしまいました」
家俊が無言で桜を見上げる。
美空もまた、つられるように視線を動かした。
わずかに冷たさを含んだ春の風に揺れる薄紅色の花を、いつまでも静かに眺め続けていた。
花と花が隙間なくびっしりと重なり合い 、円い鞠のような形をした花の塊が枝のあちこちに見かけられる。
ふいに、その花(はな)叢(むら)の一つの中から白い蝶がまた姿を現した。蝶は、ひらひらと忙しなく羽根を動かしながら花に戯れかける。やがて蝶はしばらくその辺を飛んでいたかと思うと、空高く舞い上がり、樹々の向こうへと消えていった。