その男と目があった瞬間、時間が止まった。 小説 激愛~彼の瞳に射貫かれて~ | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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     《其の壱》

 その、ほんのひと刹那の光景を眼にした時、美空(みく)は不思議な既視感に囚われた。奇妙な、浮遊感にも似た束の間の意識の空白、次いで流れ込んできた温かなものは、どこか過ぎ去った昔を愛おしむような、懐かしむような感情に似ていた。
 郷愁とでも形容すれば良いのだろうか。はるかな過去に確かに体感した出来事、もしくは、めぐり逢ったはずの人と思いもかけぬときに再び出逢ったような、そんな感覚だった。
 穏やかな晩秋の陽差しが乾いた地面を白く浮き上がらせ、その場所だけが周囲の喧噪や物音と一線を画し、まるで芝居の一幕を見るかのような別世界を形作っている。降り注ぐ陽光が作る光の輪の中心に座った男は、地面に腰を下ろし、うつむいた恰好で何事か思案に耽っているように見えた。
 自分でさえ気付かぬ間に、美空は吸い寄せられるように男に近付いていた。男を取り巻く狭い空間はあまりにも静謐すぎて、声をかけるのすらはばかられるような雰囲気がある。だからというわけでもなかったのだが、いつしか美空は物想いに沈む男の横顔に見入っていた。
「―もし」
 どれほどの刻が経ったのか、恐らくは自分で感じているよりはたいした刻ではなかったのだろうが、美空には随分と長い間、刻が止まっていたように思えた。
 そう、まさしく、男のひと言が合図となり、美空の周囲の刻が再びゆっくりと動き出したのである。
 突然、声をかけられた美空は愕いて顔を上げた。
「何かお気に入りのものがございますか」
 穏やかな声音で問いかけられ、美空は一瞬固まった。
 どうやら、男は小間物の行商をしているようだった。町中の往来の端に控えめに陣取り、荷をひろげている。
 美空は、そんなことすら確かめもせず、無意識の中に男に近寄っていたのだ。我ながら、あまりにも大胆というか、はしたないことのように思え、美空は赤面した。咄嗟にせわしなく視線を巡らせていると、ふっと朱塗りの櫛が眼に入った。
 小さな、美空の手のひらにすっぽりと納まるほどの大きさだが、白い水仙が蒔絵で描き出されて、若々しい華やぎを添えている。
「櫛を―」
 美空がやや上ずった声で呟くと、男が頷いた。
「こちらでございますか」
 スと手を伸ばし慣れた手つきで櫛を取り上げると、美空に差し出してみせる。刹那、男の手の優雅な動きを追っていた美空の眼と男の眼が合った。吸い込まれそうなほどに深い光を湛えた双眸が真っすぐに美空を見つめてくる。男の差し出した櫛を受け取ろうとして差し出された美空の手がかすかに震えた。
 次の瞬間、乾いた音を立て、櫛が地面に転がった。いけない、そう思って手を伸ばしてみたけれど、櫛は地面に落ちてしまった。
「申し訳ありません、私ったら、何てことをして―」
 美空は己れのしでかしたあまりの失態に耳まで赤くなった。
「大切な商い物に傷でもついていたら大変」
 恥ずかしさに涙さえ眼に滲ませ、男に訊ねる。まさか眼の前の男に見惚(みと)れていたのだとは、いかにしても口にできるものではない。
 おろおろとする美空の前で男は落ち着いた様子で櫛を拾い上げた。
「大丈夫ですよ、割れてもいませんし、ヒビも入ってはいない」
 変わらず穏やかな物言いで美空を安心させるように言う男に、美空は真顔で首を振る。
「それでも、私がしてしまったことに変わりはありません。その櫛を買わせて頂いたら良いのですが、生憎、持ち合わせがなくて」
 と、ここまで言い、またしても羞恥に頬を染める。裏店住まいの十六歳の娘はその日を暮らしてゆくのさえやっとという有り様で、櫛や簪はむろん白粉や紅など我が身を飾る品々を買うことなぞ、およそ思いもよらない。
「よろしければ、そちらは差し上げましょう」
 予期せぬことを言われ、美空は大きな眼を見開いた。信じられないといった表情でまじまじと相手を見つめる。
 もしかして憐れまれたのかもしれないという考えがちらりと脳裡をかすめだが、眼前の男は彼の端整な容貌を照らし出す秋の終わりの陽差しそのもののような屈託ない笑みを浮かべている。
 その表情には美空に対する嘲りや憐れみのようなものは、ひとかけらも混じってはいない。
「この櫛には傷一つついてはおりませんし、売り物にならないということもございませんが、あなたがそこまでお気に入ったのなら、差し上げますよ」
 物やわらかな声と共に、朱塗りの櫛が差し出される。朱い櫛に、白い浄らかな花が一輪、咲いている。
 思わずその櫛に見入ってしまった己れを恥じるように、美空は烈しく首を振った。
「結構です、見ず知らずの方から、このような高価なものを頂くいわれはありませんから」
 男の口許が綻ぶ。
「そのように気にすることはありませんよ。この品は、あなたが思っているほどの値打ち物ではないのです。私のような、しがない行商人に買うのを躊躇うような、そんな高価な品物は扱えません」
 美空を馬鹿にしている風でもなく、淡々と説明する男の口調はどこまでも穏やかだ。しかし、美空はつい叫ぶように言ってしまった。
「普通の人なら、そうなのかもしれませんけれど、私にとっては、その櫛だって手が届かないような高級品なんです!!」
 美空は口にした後で、ハッと我に返った。
「あの―、ごめんなさい。悪いのは櫛を落としてしまった私の方なのに、生意気な口を利いてしまいました」
 すぐにカッとしてしまう、負けず嫌いの気性は亡くなった父親譲りのものだ。いつも気にして、できるだけ人前では出さないように気をつけてはいるものの、やはり、なかなか上手くはゆかない。
「その櫛は取っておいて下さいませんか? 今すぐというわけにはゆきませんが、ひと月―いえ、ふた月か三月(みつき)くらいの中には必ずお代を工面して買いにきますから」
 早口で言うだけ言うと、美空は赤くなりながら逃れるようにその場を離れた。
 不思議な男だった。年の頃は二十歳をわずかに過ぎたほどだろうか。しかし、その落ち着いた物腰からは老成した雰囲気が漂い、男を実年齢よりは少し上に見せているようだった。
 実際には美空より、五、六歳年長なのだろう。はるか彼方で男の声が聞こえたような気がしたけれど、美空は一目散に走った。あの男とこれ以上一緒にいると、自分がどれだけ恥さらしのような真似をしてしまうか判らないと思ったからだ。
 走りに走って、やっと人通りの少ない町外れまできて、初めて安堵の吐息をつく。霜月もそろそろ下旬に差しかかろうとしているこの季節、美空は額にうっすらと汗を滲ませていた。身体中が火照ったように熱いのは何も野兎のように駆けてきたからばかりではないだろう。
 漸くゆっくりとした脚取りで歩きながら、美空の瞼には、たった今出逢ったばかりの男の顔が灼きついていた。
 幾億もの夜を集めたような瞳は漆黒で、そのまなざしは深い。役者といっても通りそうなほど造作の整った面は精悍さを滲ませながらも、どこかに品の良さを窺わせた。
 美空は、けしてあの櫛を欲しかったわけではない。否、むしろ、男の顔に見惚れていた己れをごまかすために、つい、櫛に見入っていたのだと咄嗟に出まかせを言ったのだ。
 どうやら男は美空の言葉を額面どおりに受け取ったらしいが、万が一、自分の邪な想いが―男のきれいな顔に見惚れていたことなど見透かされていたらと想像しただけで、あまりの恥ずかしさに死んでしまいそうだ。
 現実として、あの男の深いまなざしは人の心の奥底に潜む想いまでをも瞬時に見抜いてしまうかのような鋭さをも秘めていた。まなざしそのものは凪いだ春の海のようにやわらかなのに、どこか感情の読み取れぬような底知れなさがある。
 それをいえば、あの男の存在そのものが謎めいたもののようにも思えてくる。身なりも物言いも町人そのものだし、一見、どこにでもいそうな小間物売り風の男だが、そのやわらかな物腰、穏やかな笑顔の下に何かが透けて見えるような気がする。
 では、その正体が何なのかと問われれば、美空には応えようもないのだが。もしかしたら、すべては自分の考えすぎなのかもしれない。偶然の出逢いとはいえ、あまりに予期せぬものだったゆえ、男との出逢いをそんな風に特別のもののように思ってしまうのだろう。
 男ぶりは良いが、殊に変わったところもない、ごく普通の男だった。得体が知れぬように思えるのもすべては自分の考えすぎだ。そう思おうとして、美空は、その考えが所詮はいっときの気休めでしかないことも判っていた。