香花を亡き娘の身代わりにしようとする奥方に夫の県監は強い危機感を。。 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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第4話 ユン家の娘


「あなたは私を助けて下さったし、屋敷まで送って下さったわ。あなたがいなければ、私もソンジュもあのままずっと立ち往生していたことでしょう」
「人としての当然のことをしただけで、特別なことも何もしていません。そうおっしゃって下さるだけで、十分です」
「そんなことを言って、私をがっかりさせないで。これだけではありませんことよ、こちらの衣類もすべてお持ちになって欲しいのです」
 香花があまりのなりゆきに圧倒される。
 理蓮が探るような視線を向けてきた。
「この間、初めて逢ったときも思ったのだけれど、あなたはもしかして、両班のご息女ではないのかしら」
 香花は息を呑んだ。存外に理蓮が鋭いことに愕いたのである。
「何らかの事情がおありで、漢陽から離れたこの地までおいでになったのでしょう?」
 一瞬、香花の顔が強ばったのを見て取り、理蓮は安心させるように微笑みかけてきた。
「ご心配なさらないで。別に、あなたの身許をあれこれ詮索しようというつもりはありません。あなたは自分で村娘のようにふるまっているつもりのようだけれど、産まれながらに持った気品は、たとえどのような暮らしにあっても、けして損なわれものではないのです。真の宝玉が砂に紛れても、けして輝きを喪わないようにね。あなたをひとめ見て、私はすぐに、あなたが村の娘ではないと判りました」
 こんな場合、自分の方から迂闊に喋ると、かえって墓穴を掘る危険性がある。この夫人は穏やかな見かけによらず、切れ者でしたたかな一面を持ち合わせているようだ。
 香花が沈黙を守っていると、理蓮は微笑を絶やさぬまま続けた。
「お兄さん(オラボニ)と一緒に暮らしているそうね。町の酒場の女将の話では、あなたたちが本当の兄妹のようには到底見えないとか。まるで想い合う恋人か夫婦のようだと」
「―!」
 香花の眼が零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「あなたは―どうして私たちのことをそこまで知っているのですか?」
 夫人の口ぶりで、明らかに香花と光王について身許を探らせたことが判る。
「あなたの真のお兄さんではないのね?」
 そう指摘された途端、我知らず頬が赤らんだ。駄目だ、光王とのことを口にされただけで、鼓動がこんなにも速まり、身体が熱くなる。
 落ち着きなさい、落ち着くのよ。自分に言い聞かせながらも、体温はどんどん上昇してゆく。心ノ臓が煩いほど跳ね上がり、その音が理蓮にも聞かれてしまうのではないかと思うほどだ。
「慕っているの?」
 再度問われ、香花は唇を噛みしめた。
「奥さまには関係のないことです」
 香花がやっとの想いで応える。
「その男(ひと)のことを好きなのね」
 なおも沈黙を守り続ける。
 理蓮がにっこりと笑った。どこか少女めいたあどけなささえ漂わせる微笑だが、その口から出たのは、微笑ましいどころではなかった。
「別に構いませんよ。あなたがその男を慕っていようと、私には確かに拘わりのないことですものね。でも、こう言えば、どうかしら。あなた次第では、その男の身の立つのようして上げても良いと私は考えているのだけれど」
 刹那、弾かれたように声花が顔を上げた。
「それは、一体、どういう―」
 眼前の理蓮は相変わらず淡い微笑を湛えている。しかし、その細められた双眸は、およそ感情を感じさせない。
 押し潰されそうな沈黙の後、理蓮が口を開いた。香花の身体に緊張が満ちてゆく。この狡猾な夫人は、沈黙さえ自分に有効に働くように使えるのではないかと、つい勘繰りたくなる。
「あなたのお兄さんは、小間物の行商をしているのでしょう。私なら、お兄さんが町にちゃんとした店舗を持つように助力することくらいはできますよ?」
「―」
 依然として沈黙を通しながらも、その意外なひと言は香花の心をくすぐった。
 光王にちゃんとしたお店を持たせて貰える―、それは何という誘惑に満ちた響きだろう。
 今の光王は最早、義賊でも暗殺者でもない。ただの光王だ。早朝から陽が落ちるまで脚を棒にして町中を売り歩いても、稼ぎはたかが知れている。もし、この夫人の言葉が本当なら―。
 無意識の中に香花が身を乗り出したかけた時、理蓮の声で現実に引き戻される。
「その代わりと言っては何だけれど、私と取り引きをして欲しいのです」
 香花はハッとして眼の前のしたたかな女人を見た。鋭い輝きを帯びた視線が射貫くように香花を見据えている。
「あなたに私の養女になって欲しいのです」
 えっと、香花は一瞬、身を退いた。
 理蓮が余裕の笑みを向ける。
「あなたにもお兄さんにも悪い話ではないはずよ。よく考えてみて。このまま、今の暮らしを続けるのと、どちらが良いかしら? こ私の提案を受け容れれば、あなたは以前のように両班としての生活に戻れるし、お兄さんはお兄さんでちゃんとした店を手に入れられる。けして悪い話ではないと思うけれど?」
 香花は小さく息を吸い込んだ。
 言葉を選びながら、ゆっくりと応える。
「奥さま、私は確かに、おっしゃるように事情があって都からここまで流れてきました。ご賢察のとおり、私は両班の娘ですが、実家は最早、途絶えたのも同然。その家門を再興するのが目下の私の夢なのです。奥さまが何故、私にそのような話をなさるのかは存じません。でも、私には実家の再興という夢がありますし、それに、一緒に暮らしている兄は私にとって、とても大切なひとです。その人との暮らしを棄ててまで、手にしたいものなど何もありません」
 香花が言い終えたのは、穏やかな、けれど辺りを払うような凜とした声音が響いたのはほぼ同時のことであった。
「夫人、珍しい客人が来ていると耳にしたのだがね」
 香花が振り返ると、男性にしてはやや小柄な男が立っていた。歳は六十にそろそろ手が届こうかというくらいで、髪は殆ど銀髪、鼻の下にたくわえた髭も雪を思わせる純白だ。その立派な身なり、威厳のある居住まいから、すぐに屋敷の当主―県監その人であると知れる。
「旦那さま、お帰りなさいませ」
 理蓮は座ったままではあったが、優雅に一礼し、嬉しげに顔をほころばせた。
「これは可愛らしい客だな。そなたのそのように幸せそうな表情を見るのは久しぶりだ」
 ユン徳義は穏やかな声音で言った。  
「ご覧になって。私たちにまた、可愛い娘ができるかもしれなくてよ。今、このお嬢さんに私たちの許に来て下さらないかしらとお願いしていたところなの」
 香花は一旦立ち上がる。両手を組み眼の高さまで持ち上げ、その場に座って深々と頭を下げた。目上の人に対する拝礼である。
 県監は眼を細めて香花の挨拶を受けていたが、やがて、穏やかに笑んだまま夫人に言った。理蓮も香花も、徳義が実は石榴の樹の影に潜んで、二人のやり取りを途中から聞いていたのだとは知らない。
「夫人、あまり可愛らしいお客人を困らせてはいけないよ。このお嬢さんは随分と弱り切っているようだ」
 幼い子に言い聞かせるように言うと、これは香花に向けて言った。
「家人から話は聞きました。妻の窮地を助けて頂いた上に、長い間、お引き止めしていたようで、申し訳ない。私も帰ってきたゆえ、お引き取り頂いても構いませんよ」
 一介の小娘にも丁寧な物言いであったのは、やはり、徳義もまた、この娘の拝礼―立ち居振る舞いがただの田舎娘のものではない、つまり両班に属する令嬢だと一瞬で見抜いたからであった。
「それでは、私はこれで失礼致します」
 香花はこのときが好機と急いで立ち上がった。県監夫妻に深々と頭を下げる。ソンジュが帰りの道案内に立った。
「待っ―」」
 引き止めようとする理蓮の肩に、徳義がそっと手を置いた。
「止めなさい」
「あなた」
 徳義を見上げた理蓮の両眼はも玩具を途中で取り上げられてしまった幼児のようだ。
 全身で不満を訴える妻を、徳義は優しく抱き寄せ、その薄い背中を宥めるように撫でた。
「あの娘は素花ではない。良いか、先日も申したように、私たちの娘は死んだのだ。幾ら嘆こうと、取り戻したくとも、あの娘を取り戻すことはできないのだ」
「あなた―」
 理蓮が声を上げて泣いた。文字どおり、幼子のように身を震わせて泣きじゃくる妻を、徳義はいつまでも抱きしめていた。
 その日、徳義は妻のここのとろこの変化が何によるものかとを知った。理蓮はここ半月ばかり、めざましい回復ぶりを見せている。もう放心したように庭の薔薇を眺めていることもなくなったし、誰もいない部屋から話し声がすることもなくなった。
 その代わりに、理蓮は毎日、出入りの仕立屋や小間物屋を屋敷に呼び寄せては、飽きもせず新しい服を注文し、宝飾品を次々と買い求めている。これまでの徳義なら、妻のそのような贅沢をすぐに窘めるいただろうが、今は買い物で妻の気が紛れるのならと大目に見ていたのだ。
 が、まさか、それらの買い物が亡くなった娘のためのものとは想像だにしなかった。
 理蓮は、あの娘―先刻、いつもの腰痛で動けなくなっていた妻を助け、屋敷までおぶったという―を死んだ素花と勘違いしている。確かに、あの娘の容貌は愕くほど素花に似ている。だが、素花は深窓で大切に育てられた令嬢らしく、優しくはあったが、大人しいだけの娘であった。その点、あの娘は全く異なるようだ。
 あの眼の輝き! 聡明さと自分の運命は自分の手で切り開いて人生を歩んでゆくだけの気概を併せ持つ娘だ。恐らく何らかの事情で凋落した両班の娘に違いない。だからこそ、ただ真綿にくるまれて大切に育てられた素花にはない生きるための逞しさを持っているのだ。
 瞳を見れば、あの娘が素花ではないことなど、一目瞭然であるのに。第一、か弱い素花が理蓮をおぶって長い道のりをたった一人で歩けるはずがないではないか!!
 ひと口に両班とはいっても、ピンからキリまである。下級貴族の暮らしはただ身分が両班というだけで、生活の実態そのものは庶民と大差なく、むしろ、賤しい身分と蔑まれても金を持つ商人の方がよほど豪勢な屋敷に住み、両班並の暮らしを送っているのだ。
 恐らく、あの娘は自分のことは何でも自分でこなしていたに相違ない。間違っても、素花のように大勢の使用人のかしずかれ、厠に行くのでさえ、乳母が付き添っていたような―そんな乳母日傘の暮らしを送ってはいないだろう。
 その違いが理蓮には判らないのだ。妻はあの娘に死んだ素花の面影を重ね、何とかして手許に置きたがっている。妻がそこまで望むのなら、正式な養女として屋敷に迎えても良いと徳義自身も考えないわけではないが、そんなことをしても、理蓮の心の病は治らないだろう。
 今、妻に必要なのは、素花によく似た娘を手許に置き、一生涯、覚めない夢の中に棲み続けることではない。そんなことを、亡くなった素花も望みはすまい。徳義は妻に一日も早く、目ざめて貰いたかった。哀しいことではあるが、素花はもうどこを探しても、この世にはいないのだと妻に認めさせること―それが、妻の心の病を克服する第一歩だと思うのだ。そのためには、妻の願いを叶えてやるわけにはゆかない。
 それにしても、あの(素)娘(花)のために新しい衣類や宝飾品を買い求めているときの理蓮は、実に生き生きとしていた。徳義ですら、理蓮の病がもう治ったのだと、妻は娘を喪ったという大きな痛手を乗り越えたのだと信じてしまいそうになったほどの回復ぶりを見せた。
 今の理蓮の精神の均衡はごく危ういものだ。あの素花に似た娘の存在の上に成り立っているようなものなのだから。
 何か良からぬことが起きなければ良いが―。
 徳義は、見る影もなく痩せ細った妻の身体をかき抱き、強い危機感を抱(いだ)いていた。