香花と奥方が急接近、香花はまだ身に迫る危険も知らず、、小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

第四話 ユン家の娘


「いかがされました?」
 重ねて問うと、若い女中が主人になり代わって応える。
「実は、奥さまが腰を痛められてしまったようなので、ここで立ち往生していたのです」
「まあ、それはいけないわ」
 香花は表情をさっと曇らせ、座り込む女主人の方に近寄った。
「大丈夫ですか? 少しは動けますか?」
 その時、初めて顔をうつむけていた女性がゆるゆると顔を上げた。
 あっと、思わず声を上げそうになるのを、香花は寸でのところで呑み込む。
 何と、腰を痛めて難儀していたのは、隣村の県監の奥方―ユン夫人であったのだ。道理で、お付きの女中の顔に見憶えがあると思ったはずである。この女中は半月前、香花が県監の屋敷の薔薇を門前から覗き見ていた時、夫人に呼ばれて出てきたあの女だった。
「少し動いただけでも、腰に烈しい痛みが走って―」
 消え入りそうな声で訴える夫人を見、香花は目まぐるしく思考を回転させる。
 取るべき方法は二つある。香花はお伴の若い女中に告げた。
「方法は二つあります。一つは、あなたがお屋敷に戻って、誰か人を呼んでくるというものです、奥さまをお運びするのには人手が要りますから。その間、奥さまには、私がついていますので、できるだけ早く戻ってきて下さい」
「奥さまをお運びするのなら、輿の方がよろしいでしょうか?」
 機転を利かせた女中が提案する。香花よりは幾つか年上だろうが、なかなかよく気のつく女中のようだ。
「二つめは、私が奥さまを背負ってお運びすることです」
「えっ、それは幾ら何でも無理でしょう」
 女中が眼をまたたかせた。
 香花が笑う。
「大丈夫ですよ。私はこう見えても、力だけはあります」
 香花は少し思案し、夫人に訊ねた。
「奥さま、いかが致しましょう」
 夫人は、ひっきりなしに襲ってくる痛みどころで、それどころではなさそうだ。
「早く屋敷に帰りたいわ」
 呟くように言うのへ、香花は頷いた。
「判りました。それでは、私がお屋敷までお連れします」
 言うが早いか、しゃがみ込んだ。
「少し手を貸して頂けますか?」
 女中が理蓮を辛うじて支えて立たせ、何とか理連は香花の背におぶわれる形になった。
 〝よいしょ〟と小さな声でかけ声をかけ、香花は危なげない脚取りで立ち上がる。先に歩き出した香花を慌てて茫然と見ていた女中が追いかけてきた。
「愕きました」
 心底びっくりした顔で言う女中に、香花は微笑む。いつしか二人は並びながら歩いていた。
「正直申し上げて、本当にお嬢さま(アツシー)が奥さまを背負って屋敷まで辿り着けるとは思えなかったもので」
「お嬢さまだなんて、止して下さい。私の名は香花。ただの香花と呼ん下さいな」
 気さくに言うと、若い女中がまた眼をパチパチさせる。
「私は賤民ですから。それに、お嬢さまは村娘のなりをなさっているけれど、そんじょそこらの薄汚い農民の娘ではないでしょう? 私は文字もろくに読めないけれど、長年、お屋敷に奉公して色んな人を見てますから、人を見る眼は少しはあるんです」
「あなたの名前は?」
 親しげに問う香花に、女中は肩を竦めた。
「ソンジュといいます。お嬢さまは少し変わってるんですね」
 クスリと香花が笑った。
「いつも他人(ひと)からよく言われます」
 香花はふと表情を引きしめ、背後の理蓮を気遣うように声をかけた。
「奥さま、ご気分はいかかですか? 痛みはどうですか」
 夫人は応える気力もないようで、返事はなかった。
 傍らを並んで歩くソンジュが代わりにに応える。
「奥さまはよく腰痛を起こされるんです。いつもお屋敷にいらっしゃるときなら、すぐによく効く煎じ薬をご用意できるのですが、生憎、今日は私がうっかりしていました」
 ソンジュは夫人には聞こえないように小声で囁いた。
「大丈夫だと思います。そのお薬を召し上がりになれば、直に良くなられると決まっていますから」
「そうですか、それなら良いけど。でも、腰痛はこじらせると、後が長引くから、ちゃんと手当しなければ」
 話している中に、隣村の入り口近くに経つユン家の屋敷が見えてきた。
「それでは、私は男の人たちを呼んできます」
 ソンジュがそう言って先に走って帰っていったが、実際、彼女が連れ戻った数人の下男たちは役にはあまり立てなかった。というのも、夫人の意向で、彼女はそのまま香花に背負われて屋敷に入りったからだ。流石にそこからは下男たちが代わり、理蓮を居室まで運んだ。
 すぐに帰ろうとした香花はソンジュに呼び止められ、別室で待つように言われた。
 案内されたのは部屋ではなく、庭の一角だった。四阿風の屋根がついただけの簡素な作りの建物は、周囲が吹き抜けになっていて、庭がよく見渡せる。板敷きで中央に丸い小さな円卓が置かれていた。
 香花は見晴らしのよくきく場所に陣取り、しばらくは景色をのんびりと堪能した。すぐ向こうには薔薇の園が見える。ひと群れの薔薇の向こうに遠く屋敷の建物がかいま見えた。外から見るより、この屋敷も庭も相当に広いのだろう。そういえば、屋敷の入り口近くにも、薄紅色の薔薇が植わっていたと、香花はぼんやりと思い出す。
 この屋敷の主人―県監はよほど薔薇を好んでいるのだろう。今、香花の眼に映じているのは、黄色と真紅のふた色の薔薇だった。ざっと見積もっても、全部で何十本とあるのではないか。
 四阿風のこの建物の傍らには石榴の樹が一本立っていて、まだ厳しい昼の陽差しを涼しげな緑の葉が遮っている。時折、陽差しには似合わぬ涼やかな風が吹き渡ると、石榴の樹がさわさわと葉音を立てた。
 こうしていると、まさに村の人暮らしと両班の暮らしの差は歴然としている。ここでは刻がゆったりと流れ、屋敷に暮らす人は生活の苦労を知らない。絹の華やかな衣裳を纏い、重たげな宝玉を惜しげもなく身に飾り、ただ季節をこうして膚で愉しんでいれば良い。が、ソロン村の人々はどうだろう。
 例えば隣家の朴夫妻は働きどおしに働いても、乳が十分に出るほどの食事もままならない。季節を考えるのは田畑を耕すため、日々の暮らしのためであって、間違っても、季節のうつろいに風雅を感じるゆとりなどあるはずがない。
―両班も人間も同じ人間なのだよ。人には本来、高低などないんだ。
 ふと、亡き崔明善の言葉が脳裡をよぎる。
 確かに、あの方の言うとおりだった。人が人を差別し、同じ国の民を両班だ賤民だと蔑むことそのものが間違っているのだ。
 そう思わずにはいられない。ただ、そのために自分が何をすれば良いのか、できるのかと考えると、問題があまりにも途方もなく大きすぎる気がして、なすすべがないようにも思えてくるのだった。
 待たされること一刻近くもなると、流石にそろそろ帰らなければと思い始める。
 庭先からソンジュに支えられ、杖をついてゆっくりと歩いてくる夫人の姿が見えたのは、まさに香花が立ち上がろうとしたときだった。
「先ほどはご足労をおかけしました」
 県監の夫人理蓮は、たおやかな老婦人である。それは半月前に初めて見たときの印象は何ら変わらない。
 理蓮はソンジュに手を貸され、円卓を挟んで香花の向かい側に座った。
 一礼した女中が元来た道を屋敷の方へと戻ってゆく。
「お加減はいかがですか? 腰の方はもう大丈夫なのですか?」
 理蓮は微笑んだ。
「あなたにまでとんだご心配をおかけしてしまいましたね。もう、いつものことなのですよ。癖になっているのでしょうか、少し長く歩いたり、無理をすると、動けなくなるくらい腰に激痛が走るようになってしまって」
「もう痛みはないのですか」
 重ねて問う香花を見て、理蓮は嬉しげに頷く。
「いつも服用している痛み止めを飲めば、一刻もすれば嘘のように痛みは治まります」
 そこに、ソンジュが再び帰ってきた。両手に小さな卓を恭しく捧げている。その上に掛かっている色鮮やかなピンクの布を外すと、現れたのは眼にも綺麗な花の形をした干菓子と、急須、湯呑みだった。
 ソンジュは小卓を床に置き、手早く運んできた急須から一対の湯呑みに茶を注ぐ。
「どうぞ」
 理蓮から勧められ、香花は素直に湯呑みを手にした。ひと口含むと、何とも甘ずっぱいような香りが口中にひろがる。
「これは、何のお茶でしょうか」
 訊ねると、理蓮が一瞬、怪訝な表情になった。
「まあ、何を言うのだ。これは薔薇茶ではないか。毎年、春と秋にあなたが手ずから花びらを摘み取って、乾燥させて作っていたのに。忘れてしまったのか?」
「えっ」
 香花は戸惑いを露わにした。
 理蓮との会話についてゆけなくなり、傍らのソンジュに助けを求める。ソンジュが慌てて言い添えた。
「奥さま、持ってくるようにおっしゃった品が来たようにございます」
 その声が合図のように、屋敷の方から若い下男が大きな荷物を運んでくる。
 下男はソンジュにそれを渡すと、一礼してすぐに戻っていった。
「奥さま、こちらのお嬢さまが今、お飲みになっているのは何のお茶なのかとお訊ねになっておられます」
 ソンジュが改めて状況説明すると、夫人はハッとした表情で慌てて言い直した。
「ああ、このお茶ね。これは薔薇茶ですわ。我が家の庭に咲く薔薇の花びらを乾燥させ、お茶にしましたの。お茶だけでなく、ジャムもできますのよ。私の娘が作りました」
 香花が頷く。
 理蓮の小さな血の気のない顔には、取り繕うような笑みが浮かんでいる。
「奥さま」
 ソンジュにどこか遠慮がちに声をかけられ、理蓮が我に返ったように頷く。
「例のものをこちらへ」
 手で円卓を差し示すと、ソンジュはつい今し方、下男が置いていったばかりの荷を丁重な手つきで解いた。
 ソンジュが両手で捧げ持つようにして円卓に載せたのは、何と明らかに上等な仕立てと思われるチマチョゴリ数着と、きらびやかな宝石箱であった。
 理蓮は無造作に宝石箱を引き寄せ、蓋を開ける。中を何げなく覗き込んだ香花は、小さな声を上げた。珊瑚の腕輪、翡翠の首飾り、琥珀の指輪―と数え切れないほどの宝飾品がぎっしりと詰まっている。いずれもが一つ売れば、村の一家が半年はゆうに暮らせるほど高価なものばかりだろう。
「どうぞ」
 すんなりと差し出され、香花は二度、ひっくり返りそうになった。
「―」
 香花が当惑していると、理蓮は微笑んだ。
「あなたには、言葉に尽くせないほど感謝しております。どうか、私からのお礼だと思って、お納め下さい」
 次の瞬間、香花はふるふると首を振った。
「こんな立派なものを頂くわけには参りません。私は別にそんなたいしたことをしたわけではないのに」