明らかになった美男の正体は刺客!彼が盗んだ生殺簿が朝鮮王朝を揺るがす? 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

 それから幾日かを経た。
 夕刻、香花が厨房でソンジョルと夕飯の拵えをしている真っ最中のことだ。
 ウィギルが顔を覗かせた。
「先生、兄さん(オラボニ)が来てますよ、お忍びなんですかねぇ、地味な格好をなさってましたが」
「兄さん―」
 香花は一瞬、怪訝に思う。自分に兄など存在するはずがないのに、何故、いないはずの兄が自分を訪ねてくるのか。
 ウィギルが人の好さそうな笑みを浮かべた。
「あんな良い男が兄さんじゃア、俺なんか、所詮は道端の石ころくらいにしか見えねえよな。それにしても、先生んところは皆、凄ぇ美形揃いなんですね」
 最後のひと言で、その突然現れた兄というのが誰なのか推察できた。
 香花の脳裡に、この世の者とも思われぬ美貌が浮かぶ。まさに神の祝福を受けたとしか思えない、眩しいほどの美しさを持つ男。
 香花はソンジョルに断り、少しだけ外させて貰った。庭を突っ切って門を出ると、誰の姿もない。ウィギルが嘘をつくはずもないので、きょろきょろと周囲を見回していると、
「ここ、ここだよ」
 と、大きな手のひらが屋敷をぐるりと取り囲む塀の曲がり角から覗いて、ひらひらと動く。
「何しに―」
 何しにきたのよ、と言いかけて、慌てて口をつぐむ。人の眼も耳もあるのだ。ここはやはり用心に用心を重ねるに越したことはない。
「兄さん(オラボニ)」
 さも嬉しげに笑顔を作り、手を振り返す香花を見、あの男が呆れたような肩をすくめる。
「お前って、結構役者だなァ。こんなお屋敷勤めより、旅芝居の一座にでも入った方が向いてるんじゃないか?」
 香花の〝兄〟と名乗るからには両班の若者らしい作りにしなければならないのに、いつもと同じ行商人風の格好である。大胆なのか、それとも、愚かなのか。道理でウィギルが〝お忍びなんですかねぇ〟と首をひねっていたのも頷ける。
「失礼ね。わざわざ、そんなこと言って、私をからかうためにここまで来たの?」
 香花はわざと怖い顔で男を睨む。
「おいおい、嬉しそうな顔、嬉しそうな顔! そんな怖い顔じゃ、どう見ても、久しぶりに恋しい男に再会した女には見えないぜ」
「何をふざけたこと言ってるの! あなたは兄さんってことで来たんでしょ。話を勝手にすり替えるのは止めてよね」
「はは、そうだったな。悪い、悪い。どうも、お前といると、調子が狂っちまう。別に喧嘩を売りに来たわけでもないのに、顔を見りゃア、このとおりだものな」
 男はへらへらと笑っているが、一体、どこまで本気なのか知れたものではない。こんな脳天気な顔を見ていると、あの月夜の晩、黒装束で屋敷に忍び込んできたときや市場で〝〟何故、言わなかった?〟と凄みを漂わせていたときの男とは別人ではないかと思ってしまいそうになる。
 様々な顔を持つ不思議な男。だからこそ、得体が知れず、どこか信用できない。
「ところで、お前の名は?」
 香花は呆れ返って、眼前の男をしれっと見つめた。
―別に、あなたには関係ないでしょ。
 そう言って追い返すこともできたが、そこまで頑なになる必要もないだろうと思ったのだ。―何より、この男には珊瑚の簪を貰った。
 もちろん、名誉のために断っておくけれども、香花はあの簪をただで貰ったわけではない。これから少しずつでも時間をかけて代金は返してゆくつもりだ。
「―香花」
 一瞬の静寂の後、男が吹き出したかと思うと、腹を抱えて笑い出した。
 何がおかしいのか、男は涙眼になって笑っている。しばらく唖然として見つめていた香花はすっかり気分を害した。
「あなたって、やっぱり最低」
 くるりと背を向けようとすると、男がまだ笑いながら追いかけてくる。
「待てったら」
「何がそんなにおかしいのよ?」
 香花は仁王立ちになり、男を挑戦的な眼で睨み据える。
「だって、お前、全然似合ってないよ、その名前。だって、香る花だなんて。名前だけ聞けば、どこの儚げな美少女かと錯覚しちまうぜ。もっと名前をふさわしいのに変えた方が良いんじゃないか、騒馬(ソマル)とか」
 そう言いながらも、眼尻に涙すら浮かべて笑い転げる。
「騒馬―」
 香花は呟き、繰り返す。
 騒馬、騒馬。
「何ですって、それって、私が騒がしい馬ってこと?」
「ま、読んだとおりだよな」
 男は美しい面に、さも愉快そうな笑みを浮かべている。
「つくづく無礼な男ね。これ以上、話す気も失せるわ」
 香花は怒って、今度こそ踵を返した。
 何歩か歩き、くるりと振り返る。
「ところで、あなたの名は?」
 男は何も言わず、ただ癇に障る気障ったらしい仕種で長い前髪をかき上げた。しかしながら、美しい男は特である。いかにもわざとらしい態度でも、美しい男がやれば、それすらも様になり、絵になるのだから。
 今のこの男のわざとらしい(他の大勢の女にはさり気なく映ることだろう)態度を見ただけで、都のどれほどの女たちが熱い溜息を洩らすことだろう。
 香花は、まだ自分がどれほどの美少女かを全く意識していない。また、その己の美しさを自覚してはおらぬことそのもの―無垢な美しさが香花の魅力の一部ともなっているのだ。
「お前もとうとう俺のことが知りたくなったってか?」
「何よ、人に名前を訊ねて応えさせておいて、あまつさえ、さんざん笑い者にしたくせに、自分は名乗らないつもり?」
 香花が叫ぶと、男は秀麗な顔を綻ばせる。
 奥手な香花でさえ、心を妖しく揺さぶられるような、実に妖艶な微笑だ。まるで漆黒の闇を背景に艶然と咲き誇る満開の桜のような。
「―光王(カンワン)」
「光王ですって!? その名前って、まさか」
 香花は柳の鞭でピシリと額を打たれたような気がした。
 光王―、かれこれ十年ほど前から都を騒がせている義賊の名前だった。光王が初めてその名を天下に轟かせたのは、まだ前王陽徳山君の治世下のことである。光王が標的にするのは貧しい者を泣かせ、搾取できるだけ搾取するあくどい両班や豪商といった庶民の敵だけだ。
 彼が〝義賊光王〟であるならば、明善の屋敷に忍び込んだのも納得できる。何故なら、明善はあの時、殺生簿を持っていたのだから。
 そして、あれは、心から朝鮮の未来を思う者にとっては、けして、あってはならないものだ。この世を覆い尽くしていたすべての闇を払い、新たな光でこの国を照らした太陽ともいえる新王完宗を誅殺し、またしても愚かな若者を王に立てようなど、誰よりも国を民をも思う義賊には許せないことだろう。
 〝義賊光王〟は朝鮮中の民から救世主のごとく慕われている。彼は不当なやり方で肥え太った者たちから巻き上げた金品を殆ど貧しい民に還元している。自分たちの手許に残すのは、本当に活動資金程度のものだ。
 民の中には〝義賊光王〟こそが真の王であり、その名のごとくこの世を光で照らす王だと真顔で語り、光王の名を聞くやいなや、まるで仏像を拝むように、さもありがたそうに伏し拝む者までいるとか。
 むろん、役人がそんな盗賊の存在を黙って見ているはずがない。光王が都に出没し始めて以来、それこそ蟻の這い出る隙間もないくらいの厳重な捜査網を張っても、光王はその労苦を嘲笑うかのように、するりと交わして逃れてしまうのだ。
 光王を頭に頂く盗っ人集団〝光の王〟が総勢どれだけいるか定かではないが、光王はいつも必要最低限の人数でしか行動しなかった。だからこそ、光王が執拗な包囲網をかいくぐり、今日まで無事でいられたのだろう。
 光王はまた、手練れの暗殺者としても知られている。誰かに頼まれて殺すというのではなく、光王がその者を殺す必要があると判断したのみ、彼は動く。ゆえに、都の両班の中でも民を泣かせた身に憶えのある者は常に光王の刃を怖れて暮らさねばならなかったのである。
 その光王であるが、実はここ一年ほど姿を消していた。或る者はいよいよ役人の監視が厳しくなってきたため、やむなく都落ちしたとも言い、また、或る者は病死したのだとも言った。要するに、光王の存在自体が謎に包まれているのだ。
 以前、偽の〝義賊光王〟を名乗る輩が出現し、都は大混乱に陥ったこともあった。結局、天下の大盗賊光王を騙った十八歳の少年は偽物であることがバレてしまった。捕らえられ、市中引き回しの上、拷問にかけられて首を刎ねられた。
 常に黒装束に身を固めてその素顔を見せないので、誰も光王の容貌を知らない。都のどこかで光王とすれ違っていたとしても、本物の光王を彼の有名な義賊だと判別できる者はいないのだ。
 その正体は絶世の美女、または息も絶えそうな老人、更には眉目麗しき美少年と様々に推測されてきたが、光王はけして人の前に進んで姿を現そうとはしなかった。
 その天下の大盗賊が何ゆえ、自分の前にこうも無防備にも姿を見せたのだろう。
「嘘でしょ」
 口ではそう言ったものの、光王を名乗るこの世にも美しい男が冗談などでそんなことを口にするとは思えない。
 時折、眼に閃く危険な光、全身から発散される圧倒的な存在感。こんなものを持つ男がただの女タラシであるはずがない。
 飄々としたお調子者の仮面の下に隠された鋭く怜悧な素顔を持つ男。
 この男は間違いなく本物の光王だ。
 香花は、眼前の不遜とも思える笑みを浮かべている男をただ黙って見つめた。
「どうして、私に素姓を? もし、私が役人に〝義賊光王〟がここにいますって届け出たら、どうなると思ってるの?」
「役人に知らせるなり、何なり好きにすれば良い」
 どこか投げやりに聞こえる科白に、香花は眼を瞠った。
「あなたらしくないわね。あなたにそんな弱気な科白は似合わないと思うけど」
「俺もヤキが回ったかな。長い間、苦楽を共にしてきた仲間とも別れちまってよ。幾ら義賊ともてはやされていようが、所詮盗っ人は盗っ人だ。良い加減にこんな稼業からは脚を洗わないと、二度と引き返せなくなっちまう。―俺自身は好きで始めたことだから構いはしないが、仲間まで絞首刑や断頭台送りにさせるわけにはゆかない」
「それで、近頃、光王が都に現れなくなったのね」
「まっ、そういうところだろう」
 光王は香花を見て、晴れやかに笑った。―思わず見惚れるほどの眩しい笑みだった。
「何だかな、初めてお前を見たときから、放っとけなくてよ。危なかしくって、眼を離したら、どこまでも弾んで飛んでいっちまう毬みてえな女だなと思ってさ。お前、俺が昔、惚れた女に似てるんだ。だから、かな。お前から眼が離せなくなっちまったのは」
 〝じゃあな〟と、光王は自分から押しかけてきたにも拘わらず、喋るだけ喋ると、実に潔いほどにあっさりと背を向けた。
「ねえ、どうして、明善さまのお屋敷に忍び込んだの? あなたはもう盗賊稼業からは足を洗うつもりだったんでしょう」
 去ってゆく大きな背中に問いかけると、光王の歩みがふっと止まった。
「あの男には気をつけろ。見かけに騙されるな。後でとんでもない目に遭うぞ」