刻はうつろってゆく。
様々な人の想いを呑み込んで、月日は流れていった。
澄んだ晩秋の空気に色づいた山々がくっきりと立ち上がる季節になった。
いつしか公子が宇治の別邸で暮らすようになって八月(やつき)が流れていた。
三月(みつき)前には黄色い愛らしい花を咲かせていた女郎花に代わり、今は色とりどりの小菊やがまずみが庭を彩っている。がまずみの枝に、紅瑪瑙のような小さな実が晩秋の陽を受けて、つややかに輝いている。
虫の音もかすかになったことが秋の深まりを告げるある夜、突如として公之が一人で訪れた。
いつもなら惟明(これあき)という従者を連れて馬でやって来るのに、今日は伴も連れず単騎でやって来たらしい。
それにしても、公之がこんな夜分に訪れるのは初めてのことであった。これまでは昼頃にふらりと訪ねてきて、半日ほどゆっくりと寛いだ後、夕刻には帰ってゆくのが常であった。
丁度、公子は文机に向かって書き物をしていたところであった。
秋空雲流
何在彼方
雲唯流消
鳥行何処
我心亦然
秋の空に雲は流れ
彼方には何が在らん
雲はただ流れて消え
鳥はいずこにへと行かん
我が心もまた然り
要訳
秋空に雲が流れている
あの空の彼方には一体何があるのだろうか
雲はただ流れ消えゆき
空を飛ぶ鳥はいずこにゆくのだろうか
私の心もまたあの雲や鳥のようにあてどなく漂い流れ、どこにゆくのか、ゆく先は判らない
公之は自分では武芸にしか能がないと謙遜しているが、琵琶をたしなみ、しかもこれがなかなかの腕前であった。名手とはいえないまでも、衆に抜きん出ていることは確かである。この日も姿を見せるなり、置いてある琵琶を持ち出してきて、ひとしきりかき鳴らした。
公之が請うので、公子もまた琴をつま弾く。しかし、公子は正直、琴が得意ではない。何しろ、ろくに練習もしたことがないのだから、上手く弾けないのも無理はない。ここに来て、時折公之が教えてくれるようになり、それでもまだ以前よりは少しは上達したのだ。
どうやら公之は武芸の他に楽器もたしなむらしい。琴の腕前もかなりのもののようであった。もっとも男性が琴を弾くことは殆どない。公子もただ一度だけ、お手本にと公之が初歩の練習曲を弾いたのを耳にしたことがあるだけだ。
一刻ほど二人で琵琶と琴を合わせた時、公之がふっと琵琶をかき鳴らす手を止めた。
琵琶を傍らに置いて、庇近くまでゆくと、そっと御簾を巻き上げる。
菫色の夜空には銀色の月が掛かっている。
清かな光を投げかける十六夜の月は現のものとも思えぬほどに幻想的で美しい。
庭の石が月光に濡れ、光り輝き、がまずみのつぶらな紅い実が夜陰にほの白く浮かび上がっている。
縁側に立った公之は円い月を振り仰ぎ、ふと呟くように言った。
「姫は前(さき)ほど、何か書いておられたようですね」
公之が訪れるまで書いていた漢詩のことを言っているのだと判り、公子は頷いた。
「見せて頂いてもよろしいでしょうか」
催促され、公子はすぐに立ち上がり、文机まで漢詩を書き付けた紙片を取りに行った。
薄様の美しい和紙を差し出す。
公之は黙って受け取ると、その紙を食い入るように見つめた。
短い静寂が降りる。
いつもなら公之と二人だけでいても少しも気まずさなど感じたことがないのに、その夜は違った。
公子が気詰まりな沈黙を持て余していると、公之がポツリと洩らした。
「私には姫が何を考えているのか判らない」
思いもかけぬ言葉に、公子は眼をまたたかせた。
「私が何を考えているか判らない―?」
公之の言葉をそのままなぞると、公之が弱々しい笑みを浮かべた。
「姫は私のことを一体、どのように思っているだろうか」
「え―」
どうも今宵の公之は少し変だ。思いも掛けぬことばかり言う男を、公子は茫然として見つめるしかない。
「姫はこの漢詩にご自分のゆく先が判らないと書いていらっしゃいますが、心からそのように―ご自分を頼るものとてない、寄る辺なき身だと考えているのですか」
「―」
公子は言葉を失った。この詩は何も難しいことを考えて作ったわけではない。気慰みに、ふと心に浮かんだ言葉を適当に繋げ合わせて作っただけにすぎない。
その詩が、公之の気に障ったのだろうか。
公之がフッと笑った。どこ自嘲めいた笑みを刻む男に公子は胸騒ぎを感じる。
月明かりに照らし出された公之の顔が、公子には見知らぬ別の男のように見えた。
「この頃、私が宇治の別邸に女を囲っているという噂が立っています。しかも、足繁く通うところから、その女が懐妊しているのではないかとさえ囁かれているそうです。私は、そういった世事には疎いので、つい最近まで、そういった噂があることさえ知りませんでした。しかし、昨日、伯父に呼ばれて、こっぴどく怒られました。もし、そういった女がいるのであれば、結婚して、きちんとけじめをつけろと。さもなければ―もし本気でないのなら、さっさと別れて、相応の家柄の娘を妻に迎えるようにとも言われました」
公子は黙って男の言葉を聞いているしかない。
この場で何をどう言えば良いというのだろう。自分は公之を確かに愛している。だが、肝心の相手の気持ちも判らないし、第一、公子は公之の親切でこの別邸に厄介になっているだけの人間にすぎないのだから。
「もし、私がここにいることで公之さまにご迷惑をかけているというのであれば、私は明日の朝にでもここを出てゆきます」
公之にはもう十分世話になった。これまで長い間、公之の優しさに甘えすぎたのかもしれない。
「ずっとひとかたならずお世話になり、公之さまには言葉には言い尽くせぬほどのご恩を感じております。何もご恩返しができないのは心苦しいのですけれど」
公子が小さな声で言うと、公之が強い声で言った。
「私は、そんなことを話しているのではない!」
烈しい声に、公子はビクリと身を縮めた。
「姫、すべてのものを捨てて、私と一緒になってくれませんか」
公之が固い声音で言った。
到底、求婚をしている男の声とも思われないほどで、甘さなどかけらも含まれてはいない。
公子は今夜の公之は怖い―と思った。
抑揚のない低い声や何を考えているか知れぬ瞳はこれまで公子が見た公之とはまるで違う。
「私は、どうせもう死んだことになっている人間です。今更、そんな風におっしゃって頂けるような女ではありません。捨てるも何も、今の私には持っているものなど何一つありはしないのですから」
消え入るように言うと、公之は淡々と続けた。
「では、姫はこれから、どうなさるおつもりなのですか? 一生誰にも嫁がず、ただここで空しく老い、朽ち果てるのを待つと?」
「公之さまがご迷惑でないというのであれば、このまま、ここで今のままで過ごさせて頂きたいと思うております」
うつむいたまま言う。
公之の声が高くなった。
「では、あなたは一生このままで良いと言われるのか、生涯誰にも嫁がず、ここで死を待つだけの日々を送っても良いと」
涙が溢れそうになる。
突然、公之がこんなことを言い出したのは、恐らくは彼の言うように伯父公明に問いただされたからなのだろう。
自分は、こんなにも公之の負担になっているのだと思うと、今更ながらに哀しかった。
「姫は私をお嫌いか?」
振り絞るように問われ、公子は夢中で首を振った。
「私は多分―、公之さまを好きなのだと思います。さりながら、幾ら公之さまをお慕いしていても、上手くやってゆく自信がないのです。私は世間から言われているように変わっているし、美人でもありません。私は自分のことをこれでもよく知っているつもりでおります。ですから、こんな私と結婚して下さっても、あなたがいずれ私に飽きてしまわれるのではないかと思うのです」
公之を愛してはいるけれど、一人の男と共に上手くやってゆく自信がない。それは、今の公子の正直な気持ちだった。
そんな自分に、いつか公之は飽き、愛想を尽かすだろう。そうなった時、公子は公之に見捨てられ、たった一人でちゃんと生きてゆけるだろうか。二人で生きることの歓びや愉しさを知った人間に、再び孤独に耐えることができるだろうか。
「多分、好き―? 姫は自分の気持ちさえ、しかとは自覚できぬと仰せですか。私なら、はっきりと言える。私は姫を愛している。姫とずっと一緒にたいと今、この場で言えます」
苛立ちのこもった声。
これまで一度もこんなことはなかったのに、この日は話せば話すほど、会話がかみ合わない。もつれた糸が更にもつれて解(ほど)けなくなってしまうようだ。
「それに、私が訊きたいのは、姫が私の気持ちをどのように想像しているかではない。姫が私をどのように思っているか、それだけだ」
「―申し訳ありません、私、どのようにお応えしたら良いか判りません」
公子は溢れそうになった涙をこらえ、やっとの想いで言った。
「―主上のお気持ちが今になって判る」
ふと公之が洩らした言葉に、公子は弾かれたように面を上げた。