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スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

あなたの夢は何ですか?昭和50年の若者にインタビュー

20年後のコンピューターライフ (1969年作成)コンピューター学校出現!! (1969年作成)たいようでんちの島 (1962年作成)20年後のコンピューターライフ (1969年作成)コンピューター学校出現!! (1969年作成)『未来画報』の著者で昭和のレトロ文化専門のフリーライター初見健一さん(52)に尋ねた。どうしてこんな発想になったんでしょう?

「当時は交通死亡事故が急増し、『交通戦争』という流行語も生まれました。そんな時代背景を反映して、未来予想も『交通安全』が重要なファクターになっていたのです」

同じ頃の作品には、歩行者が立ち入る心配のないチューブ型道路や、人間による運転ミスが起こりえない自動制御の交通システムも登場する。程度の差こそあれ、現代に実用化されつつあるアイデアもあるから面白い。

子供たちに関心が高い未来の学校もたくさん描かれた。『コンピューター学校出現!!』(1969年 小松崎茂氏)もその一つ。教室のスクリーンに映った先生が問題を出し、生徒たちが机の上のコンピューターで答える授業は現代の大手予備校にも似たイメージで当たらずとも遠からず。

と思っていたら、よくよく見ると教室にヘンテコな箱形のロボットが幾つもいる。よそ見をしている子に背後からげんこつを食らわすロボもいれば、生徒をアームで捕まえて教室の隅に立たせているロボも。どうやら未来の教育現場では「体罰」に厳しい目が向けられるとは予想できなかったようだ。

学習雑誌に「未来予想図」が掲載され始めたのは戦後の焼け野原から奇跡の復活を果たした1950年代。超高層のタワーマンションが立ち並び、自動車が空を飛ぶ。科学の進歩は子供たちに素晴らしい未来を約束する代名詞だ。その流れは高度成長期を迎える60年代に加速する。

「驚異的なスピードで未来が目に見えて迫ってくる、1950~1960年代は異常な成長の時代でした。そこで子供たちに提示される未来予想図も、このまま行けばトンデモない未来が来る、とにかくすごい!が大前提でした。今だったら非現実的に思えるものでも、当時はかなりリアリティーを持って受け取られていたのではないでしょうか」と初見さん。

GLOBEより記事と画像を引用

20年後のコンピューターライフ (1969年作成)
20年後のコンピューターライフ (1969年作成)

コンピューター学校出現!! (1969年作成)
コンピューター学校出現!! (1969年作成)
【2025年の日本人に届け】50年後の日本:昭和50年から未来予想

2011年の未来予想図事故0のハイウェー (1969年作成)たいようでんちの島 (1962年作成)子供時代を思い返せば「21世紀ってスゴイかも」とワクワクしたり「核戦争になったらどうしよう」と眠れぬ夜を過ごしたり頭の片隅にいつも未来があった。人間にとって未来を予想するってどんな意味があるんだろう?戦後から高度成長期に、それぞれの時代を生き抜いていた日本人が思い描いた「未来予想図」を覗くと混沌とした現代を生きるヒントが見えてくる。

全身ピチピチの服を身につけ車輪のないオープンカーで透明チューブのハイウェーを滑走する。幼い頃、子供向けの漫画や雑誌で目にする未来予想図といえばそんな光景が定番だった。

それから50年余り。おじさんの郷愁にずばり刺さる本を見つけた。『昭和ちびっこ未来画報~ぼくらの21世紀』(2012年、青幻舎)。1950~70年代、学習雑誌など様々な子供向けのメディアに掲載された「未来予想図」が数多く収録される。

たとえば『事故0(ゼロ)のハイウェー』(1969年 小松崎茂氏)はスケールの大きさに度肝を抜かれる。高速道路に配置された巨大ロボットがスピード超過や重量制限オーバーの車を見つけると超音波を浴びせてエンジンを停止。UFOキャッチャーのようなアームが伸びて、違反車をつぎつぎに強制排除するのだ。

GLOBEより記事と画像を引用

2011年の未来予想図
2011年の未来予想図

事故0のハイウェー (1969年作成)
事故0のハイウェー (1969年作成)
コント55号 電報屋

コント55号 とにかく考えようよ コント55号 世界は笑う コント55号は飛ぶ鳥を落とす勢いの人気 1969年(昭和44年)の『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』の野球拳で良くも悪くも一世を風靡し、時代の寵児となった彼らだったが、子供に見せたくないハレンチな俗悪番組として放送番組向上委員会(BPO=放送倫理・番組向上機構の前身)、PTA、主婦からの投書で槍玉に挙げられ、1970年(昭和45年)4月スタートのフジテレビ『コント55号のやるぞみてくれ!』は最高視聴率が11 %と振るわず、同じくフジテレビ『コント・カチョ〜ン』が7 %、さらに日本テレビ『コント55号の日曜特別号』も7 %と人気の凋落ぶりが顕著になっていった。

以降はコント55号よりも単独での活動に重点を置き、テレビ、ラジオ、映画と多方に活躍。そんなある日、タクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。このとき既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBS系の連続テレビドラマ『夜明けの刑事』で主人公の刑事役を演じていた。

萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして1975年(昭和50年)以降はコンビとしての活動を大幅に自粛。当人達はコント55号を単体コメディアン同士のユニットと位置付けていた。

コントの筋は坂上扮する善良な普通の一市民が萩本扮する異常な人物に振り回される内容が多く、所々オーバーな動きがコントに抑揚を付けていた。特に日劇出演を契機に動きが大きくなり特徴となった。とりわけ萩本のツッコミは執拗かつ想定外のものが多かった。萩本が演じる狂気の世界が日常とのギャップもあり坂上が狼狽か苦笑する事で十分笑いは取れていた。

これに坂上が倍返しともいえるナンセンスなボケで対処し、笑いを増幅させた。ビートたけしは55号の笑いについて、「萩本さんのセンスと坂上さんの芸に尽きる」と分析する。萩本は55号のコントはボケとツッコミではなく振りとこなしと受けで成立していると述べている。

コント55号が演じる伝説のコント!「飛びます飛びます」
コント55号 コント「机」

コント55号 コント55号 コント55号 コント55号は萩本欽一(東京都台東区出身)と坂上二郎(鹿児島県鹿児島市出身)のお笑いコンビ。浅井企画所属。当たりギャグは「なんでそうなるの!」萩本、「飛びます! 飛びます!」坂上

1966年(昭和41年)営業先の熱海温泉つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話がありこの電話で坂上の助演が決定。

10月に浅草松竹演芸場の上席前座として「机」を演じたところ反応が今一つだったため、三日目に役を入れ替えたところ好評を博し五日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。

こうして2人の名は瞬く間に広がり、翌1967年(昭和42年)2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるパターンが続いた。

テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)『大正テレビ寄席』に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらず、収録後楽屋から逃げ出そうとした2人をディレクターの山下武が止めて逆に詫びた逸話を持つ。

この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年(昭和43年)、前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』、続いてスタートした『コント55号の世界は笑う』で人気に拍車がかかった。この時「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズとし(ただし、坂上からの「一回だけではもったいない」という意見から、夜の番組でやったコントを昼にもう一度やることもあった)、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。

タクシー コント55号
コント55号 なんでそうなるの? 「山彦屋」

コント55号 なんでそうなるの?コント55号 なんで そうなるの?コント55号のなんでそうなるの?台本毎週コント55号によるコントを、コンビ誕生の地である浅草松竹演芸場での公開収録で放送。シンプルな内容だったが、それが人気を博しコント55号を代表する番組の1つとなった。

ちなみにコント55号 なんでそうなるの?では「女子供に迎合しない、男の笑い声がする番組を作りたい」との二人の考えから公開収録の際には幕間にストリップショーを行い(番組ではその部分をカット)会場に女性や子供が来場しにくい雰囲気を意図的に作り出していた。

技術面で「コント55号は膝とか足とかを使っているからアップで撮られても面白くない。二郎さんと僕のどっちかがおかしいんじゃなくて、両方の真ん中がおかしいのにテレビで撮られたことがない」という萩本の意見から舞台正面のカメラを通常の1台から2台に増やし、バストサイズと舞台全景を同時に撮影した。

この番組は小学生の頃に放送されていたので、リアルタイムで見ていました。ちょうど“太陽にほえろ”の直前に放送された番組なので、セットで90分間日本テレビ系列を毎週金曜日に見ていました♪

【昭和CM・1969年】コント55号のシリーズ肌着
「コント55号のなんでそうなるの?」ジングル集

コント55号のなんでそうなるの?コント55号のなんでそうなるの?は、1973年4月から1976年3月まで、日本テレビ系ほかにて金曜日19:30~20:00に放送されたコント55号出演のお笑いバラエティ番組である。日本テレビ系列局のない地域でもスポンサーの関係上TBS系列局が『太陽にほえろ!』とセットの形で同時ネットした地域もあった。

この頃テレビ番組での活躍が増えてきたコント55号だったが、この番組は原点に返り、誕生の地である浅草松竹演芸場での公開コントを流すだけだった。しかし、それが人気を博し、コント55号を代表する番組の一つとなった。

番組終了後、二人はそれぞれピン(単独)での活動に移るが、1990年に傑作選が放送され、VHSも発売された。これをきっかけにコント55号再結成へと動いた。結成40周年を目前に控えた2005年10月にDVD-BOXが発売された。

『巨泉・前武のゲバゲバ90分!!』と同様、「何でそーなるの!?」のアイキャッチが特徴的。
 
『コント55号のなんでそうなるの?』1974~1975(昭和49∼50年)
『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』1969~1970(昭和44~45年)

コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!コント55号 裏番組をぶっとばせ!コント55号番組立ち上げの際、プロデューサーの細野邦彦が「今までで一番面白いコント55号の番組を作る。俺の言うとおりにやれ」と言ったため、萩本は驚いた。細野は当時極めて多忙だった55号に仮眠の時間を与えるなどの配慮をしており、萩本は著書で細野のことを印象に残るテレビ業界人の1人に挙げている。また低俗番組として叩かれた際、細野が「俺はそれでもこの勝負に勝ちたい」と萩本らに意気込みを語ったところ、萩本もその心意気に感じ入り「ついていこう」と思うようになったという。

放送開始時点では日曜20時台は大河ドラマが視聴率1位を独走しており、民放の番組はどこも引き離され続けていたため、上記のとおりその現状を変えようとの意気込みからタイトルが決まった。編成会議の際に、プロデューサーの細野は「当時はテレビ番組でのお色気表現が厳しかったため、野球拳と説明しても企画がすんなり通るとは思えない」との理由から、滑舌を悪くしわざと聞き取れないように説明した。

萩本欽一はこの番組を「最も嫌いな番組」としている。PTAから「俗悪番組」の槍玉に挙げられたことも理由だが、55号本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかなかった。この番組では萩本の意見が一つも通らなかった。

坂上二郎は、乗り切れなかった萩本と反対にこの番組で脚光を浴びた。自身も乗り気で参加し代表作の一つに挙げている。また、後年ダウンタウン司会の大晦日特別番組『ダウンタウンの裏番組をブッ飛ばせ!!』としてリメイクされた際、審査委員長として出演した。

野球拳で脱いだ衣裳はその場でオークションにかけられた。この収益金は交通遺児のために全額寄付されることになっており、エンディングで交通遺児の苦悩などを紹介しながら広く募金を呼びかけ、視聴者から寄せられた一円玉の詰まった小瓶なども紹介されていた。

1969年7月2日、相模原市民会館で行われた収録を相模原市の教育関係者らが視察。小山ルミが水着姿になり、子供たちもがセリに参加しているのを見て市長にクレームを入れた。相模原市民会館での収録は、同年10月9日にも行うことが予定されていたが、市側が会場使用を断った。

低俗番組ブッ飛ばせ
低俗番組ブッ飛ばせ!
1969年 コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!

コント55号 裏番組をブッとばせ!コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』は、1969年4月27日から1970年3月29日まで日本テレビ系列局で放送されていたバラエティ番組。

その名の通り高視聴率を記録していた裏番組・NHK大河ドラマ『天と地と』(NHK総合テレビ)を強く意識し「日曜日の20時台に最も視聴率の取れる番組を作る」を基本テーマとした。

コント55号を進行役に据え、萩本欽一が担当ディレクター役、坂上二郎が放送作家役の設定で開始した。元々「裏番組」という言葉は業界用語だったが、本番組がきっかけでこの言葉は一般的にも認知されるようになった。

「野球拳」のコーナーが有名で進行役のコント55号自身も野球拳に参加していた。野球拳は愛媛県松山市に伝わる郷土芸能だが、この番組の野球拳はお座敷芸として広まったじゃんけんで負けた者が脱衣する変種で、この番組の影響で脱衣野球拳というイメージが定着した。

番組は好調で、1969年7月6日の放送で視聴率は29.3%を記録し、同日27.6%だった『天と地と』を初めて上回った。1969年10月には番組の最高視聴率である33.8%にまで達した。しかし人気の高さから「子供が野球拳をマネする」などの苦情も相次ぎ、番組は1年間で終了した。

【懐かしTV】コント55号 裏番組をぶっ飛ばせ
オープニングテーマ 宮川泰「ゲバゲバ90分のテーマ」

ゲバゲバ 萩本欽一ゲバゲバ 坂上二郎進行は台本に完全に忠実で一見雑談に見えるような所でも全て台本どおり展開されていた。前田武彦が一言二言アドリブをいれただけで「台本どおりにやれ。」と怒鳴られた程であった。

『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』は、ナイターオフ編成の番組。ナイター時期は放送されず、ナイター時期は毎週日曜日の昼下がりに『巨泉×前武ゲバゲバ60分!』あるいは『巨泉×前武ゲバゲバ30分!』とギャグの部分だけを編集した再放送番組を放送した。現在、横浜市の放送ライブラリーでゲバゲバ60分!の1本分が公開されている。

この番組は、幼稚園に行っていて物心ついたときに見覚えがあるかな!?としか感じなかったが、今でも通用するギャグ満載の番組。出演者全員がプラカードを持って一コマずつ紹介される。これは字幕スーパーを入れると制作費に高額な費用が掛かったためこうした演出が取られた。

巨泉×前武ゲバゲバ90分!のうち25分
巨泉×前武ゲバゲバ90分! テーマ

巨泉X前武ゲバゲバ90分アッと驚くタメゴローアッと驚く ハナ肇『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』は1969年10月7日から1971年3月30日まで日本テレビ系列で放送された人気バラエティ番組。

司会進行はどちらも放送作家出身のタレントである大橋巨泉と前田武彦。ゲストの芸能人とのきわめてナンセンスでテンションの高いショート・コントをアイキャッチを挟んで矢継ぎ早につないでいくという、アメリカ・NBCテレビのギャグバラエティ番組『ラフ・イン』をベースとした演出手法をとった。ハナ肇の「アッと驚くタメゴロー」や巨泉の「うーしししし。」は流行語にもなるほどの人気であった。

「ゲバゲバ」の「ゲバ」は「ゲバルト」(暴力。当時の学生運動などで国家権力に対する実力闘争を表す言葉として多用された)からきている。当時既に低予算・タレント任せの安易な企画で粗製濫造されていたテレビバラエティ番組に対する警鐘として「ゲバルト」を用いた。

アイキャッチでのアニメーション・キャラクターによるサウンド・ロゴ「ゲバゲバ“ピィーッ”」の「ピィー」はアポロ11号の交信音“Go Ahead”の信号からとっている。

予算をふんだんに掛け制作時間をたっぷり取り収録中一度でもNGを出したネタは二度と収録しないといった豪華な造りだった。放送作家陣が作り上げるネタの台本は「電話帳ほどの厚さであった」と当事の出演者は語っている。司会者の巨泉・前武の進行部分だけ生放送だった。

『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』岡崎 友紀の名場面集