コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!! | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

『コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!』1969~1970(昭和44~45年)

コント55号! 裏番組をブッ飛ばせ!コント55号 裏番組をぶっとばせ!コント55号番組立ち上げの際、プロデューサーの細野邦彦が「今までで一番面白いコント55号の番組を作る。俺の言うとおりにやれ」と言ったため、萩本は驚いた。細野は当時極めて多忙だった55号に仮眠の時間を与えるなどの配慮をしており、萩本は著書で細野のことを印象に残るテレビ業界人の1人に挙げている。また低俗番組として叩かれた際、細野が「俺はそれでもこの勝負に勝ちたい」と萩本らに意気込みを語ったところ、萩本もその心意気に感じ入り「ついていこう」と思うようになったという。

放送開始時点では日曜20時台は大河ドラマが視聴率1位を独走しており、民放の番組はどこも引き離され続けていたため、上記のとおりその現状を変えようとの意気込みからタイトルが決まった。編成会議の際に、プロデューサーの細野は「当時はテレビ番組でのお色気表現が厳しかったため、野球拳と説明しても企画がすんなり通るとは思えない」との理由から、滑舌を悪くしわざと聞き取れないように説明した。

萩本欽一はこの番組を「最も嫌いな番組」としている。PTAから「俗悪番組」の槍玉に挙げられたことも理由だが、55号本来の芸であるコントによる笑いで勝負させてもらえず、「野球拳」という安易な企画で視聴率を取ろうとする姿勢に納得がいかなかった。この番組では萩本の意見が一つも通らなかった。

坂上二郎は、乗り切れなかった萩本と反対にこの番組で脚光を浴びた。自身も乗り気で参加し代表作の一つに挙げている。また、後年ダウンタウン司会の大晦日特別番組『ダウンタウンの裏番組をブッ飛ばせ!!』としてリメイクされた際、審査委員長として出演した。

野球拳で脱いだ衣裳はその場でオークションにかけられた。この収益金は交通遺児のために全額寄付されることになっており、エンディングで交通遺児の苦悩などを紹介しながら広く募金を呼びかけ、視聴者から寄せられた一円玉の詰まった小瓶なども紹介されていた。

1969年7月2日、相模原市民会館で行われた収録を相模原市の教育関係者らが視察。小山ルミが水着姿になり、子供たちもがセリに参加しているのを見て市長にクレームを入れた。相模原市民会館での収録は、同年10月9日にも行うことが予定されていたが、市側が会場使用を断った。

低俗番組ブッ飛ばせ
低俗番組ブッ飛ばせ!