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スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

近田春夫& BEEF - LADY HURRICANE ああ、レディハリケーン (1979)

近田春夫近田春夫近田 春夫(1951年2月25日 - )は、東京都出身でミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、音楽評論家、タレント。慶應義塾大学在学中から、内田裕也のバックバンドでキーボード奏者として活躍。また、創刊されたばかりの「anan」編集部にアルバイトとして出入りしていた。

1974年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成。1970年代後期から1980年代初期にかけては、ラジオパーソナリティやテレビ番組のコメンテーター、テレビドラマ『ムー一族』、『家路~ママ・ドント・クライ』出演、アニメ映画『フリテンくん』の主役声優担当など、メディアを跨いだ幅広い仕事をこなす。

「日本の歌謡曲が持つ音楽性」に最も早く気が付き1978年から1984年にかけて雑誌「POPEYE」に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載。また「近田春夫&ハルヲフォン」のアルバム『電撃的東京』(1978年)でも、歌謡曲のカバーを行った。1979年にソロ・アルバム『天然の美』を発表。アレンジ・演奏に結成直後のYMOを起用。

結成したバックバンド「BEEF」は茂木由多加とNOGERAを除いたメンバーが、1980年にテクノ歌謡バンド ジューシィ・フルーツとしてデビュー、自らプロデューサーを務めた。

近代テクノポップスを語るうえで、外せないのが近田春夫氏である。近年はタモリ倶楽部の音楽テーマによく出演していた。

資生堂 バスボンハイコンディショニング…ああ、レディバスボン 曲 近田春夫
'80春 テクノ・ポップって何? 1/2

日本選手団の制服姿1980年1月に『600 こちら情報部』でテクノポップ特集を放送。プラスチックス、ヒカシュー、P-MODELが出演。ヒカシューのメンバー全員が、東京オリンピック開会式における1964年 日本選手団の制服姿で演奏した。

日本のテクノポップ黎明期にあたる1979年から1980年にかけて、彼らは日本の音楽シーンにおいては異色の存在でマスコミからは「ピコピコ系」と呼ばれた。しかしYMOの逆輸入ブレイク以降、言葉としての「テクノポップ」も定着し、彼らの活動も活発化する。

『これがシンセサイザーだ』 600 こちら情報部
STOL飛鳥 幸尾治郎先生 600こちら情報部

600こちら情報部600 こちら情報部は、1978年4月から1984年3月まで放送された、NHK総合テレビ夕方の児童向け情報バラエティー番組。1978年に実施された抜本的な改編の際、生活科学番組『ウルトラアイ』と共に目玉番組と位置づけられた。

最近のトレンド情報を民放以上に追求し娯楽性も強かった。特に小・中・高校生を視聴ターゲットにしてトレンド情報以外にもゲストを交えてのトークコーナーが放送された。他にイラストの紹介、金曜日には「なんでも相談」と題した質問コーナーが放送された。犬のロクジローというマスコットキャラクターがいた。

600 こちら情報部 南部縦貫鉄道

帯 淳子司 会                    リポーター
鹿野浩四郎                  高田文夫
帯 淳子                   戸田恵子
田畑彦右衛門(ニュースキャスター兼解説者)    野中ともよ
                                  黒部幸英
                       原めぐみ
司会を務めた帯 淳子さん

帯 淳子さんと鹿野浩四郎さん
600 こちら情報部 帯 淳子さんと鹿野浩四郎さん
玉川カルテット 1988年

玉川カルテット 玉川カルテット 玉川カルテット「1996年お正月番組」 メンバー 松木ぽん太
三味線担当。本名松本伝、1937年生まれ。福岡県出身。幼少時からヴァイオリンを習い、続いてウッドベースもマスター。浅草常盤座専属楽団員を経て、1958年からは天津羽衣の歌謡浪曲バンド「木の実グループ」で活動。

楽器は一通りこなす芸達者で、三味線の早弾きで場を盛り上げる。おかまキャラで、ネタでは必ず女性役を演じた。素通しのロイド眼鏡がトレードマーク。身長150cm。

二葉しげる
ギター担当。本名:丸石一則、1939年12月6日生まれ。コミックバンドのメンバーを経て、1964年に上京し二葉百合子や4代目天中軒雲月に師事する。1965年に松浦と共に玉川ゆたかに誘われ加入。コブシ回しが売り物。メンバーの中で一番背が低く「金も要らなきゃ 女も要らぬ 私ゃも少し 背が欲しい」という一節は玉川カルテットの代名詞となっていた。身長145cm。

松浦武夫
前ギター担当(甲高い声の合いの手も担当)。本名:大久保純員、1938年生まれ。長崎県出身。1964年「あきれたトリオ」に加入し、翌年二葉と共に玉川カルテットに移籍して、天才バカボン、忍者ハットリくん似の愛敬ある風貌で人気者に。「松浦たけお」と名乗っていた時期もある。ギター演歌の節は一級品だったが、病魔に倒れ2005年頃に引退。身長150cm。

玉川カルテット「お笑い義士外伝」
玉川カルテット(ご存じ浪曲漫才14分)

金もいらなきゃ女もいらぬぅ~ 玉川カルテット 男ごころ 玉川カルテット 玉川ゆたか 玉川カルテットは浪曲を取り入れたボーイズスタイルの浪曲漫才グループ。小松プロモーション、ファミリーアーツを経て有限会社サンオフィス所属。

カルテットのメンバーである二葉の「♪ 金もいらなきゃ女もいらぬ、あたしゃも少し背が欲しい」のギャグがお馴染みであった。玉川一門のお家芸である任侠物を得意にする。

1961年に3代目玉川勝太郎門下の玉川ゆたかが、夫婦浪曲漫才コンビ「玉川兄弟」を結成。1962年に伊丹明が加入し「玉川トリオ」となる。間もなく伊丹が脱退し、天津羽衣門下から松木ぽん太が加入。1965年に二葉しげるが加入し「玉川カルテット」が成立。

初代リーダーは玉川ゆたか。本名:茶間豊。1939年生まれ。神奈川県横浜市出身。1956年、3代目玉川勝太郎に入門し玉川福助を名乗った。

『一本刀土俵入』『吉良の仁吉』『瞼の母』等を得意とした。メンバーで唯一楽器を持っておらず、迫力ある声とメンバーを叩いてツッコむために持っていた扇子がトレードマーク。ボーイズバラエティ協会理事長も務めた。身長160cm。1996年5月19日、肝臓ガンのため文京区日本医科大学附属病院で死去。

スポット 玉川カルテット
かしまし娘「21年ぶりのTVステージ」

かしまし娘(2005年撮影)最後まで「かしましい」かしまし娘の高座は冒頭と終わりのテーマソング。その終わりのフレーズ「♪これでおしまい かしまし娘」の日がきた。2024年1月19日に老衰のため正司歌江さんの訃報が伝えられた。

かしまし娘の結成は1956年だが、結成25年の81年には活動を休止していて思ったより活動期間は長くない。ちょうどこの頃、かしまし娘と入れ替わるように漫才ブームが起きる。それからもう40年以上が経つから若い世代はかしまし娘を知らないに違いない。

でもかしまし娘をテレビで見た世代には、今でも強烈にその芸が記憶に残っている。音曲漫才は漫才の中でも華やかで、歌が上手く無ければ成り立たないのだ。それから半年も経たない2024年7月8日に急性心臓死で次女の正司照江さんが亡くなった。残された三女の月村花江さんは「姉の死をまだ受け止めることが出来ません。」と無念のコメントを寄せた。

かしまし娘のテーマソング
正司 歌江・照枝・花江 師匠『 かしまし娘 どうでしょう?』1984年頃

仲の良い様子を見せる「かしまし娘」1981年、結成25周年を期にグループ活動を休止した。これは1970年代後半以降の低迷にトリオの生みの親で育ての親でもある勝忠男が「もうええやろ」と三人に通告したため。

結果、各々ピンになる。歌江は舞台や講演、照枝は松竹新喜劇に6年間客演し藤山寛美の厳しい稽古に耐え、花江は司会などしていた。

2005年、結成50周年の前祝で上方お笑い大賞審査員特別賞を受賞。その後、小規模ながら活動を再開し座長公演の傍ら時折テレビ出演等もしているが、テーマソングはカラオケを用い楽器を持たず専ら漫談を披露した。

2017年2月3日、結成60周年を過ぎ、『徹子の部屋』で久々に3人揃って出演した。
2018年1月20日、大阪・道頓堀角座で34年ぶりに3人が舞台出演をした。

2024年1月19日、長女の歌江が老衰により94歳で死去。同年7月8日に次女の照枝が急性心臓死により91歳で死去。三女の花江だけが健在。

かしまし娘
かしまし娘:左・照枝 中央・歌江 右・花江
かしまし娘 1970年7月14日 江東公会堂

1964年、明治座の前でポーズを決めるかしまし娘歌江は旅回りの座員だった都上英二に漫才を仕込まれた。1941年頃、歌江・照江が名古屋の寄席に出ていたころ神戸の岡田芸能社のスカウト新興キネマ演芸部の手見せに呼ばれ晴れて所属になり「天才少女姉妹漫才コンビ」として売り出される、幼い花江は別の一座に預けられ、少女歌手として旅回りしていた。

芸風はギターと三味線を弾き、流行歌や浪曲を取り入れた音曲漫才。「〽ウチら陽気なかしまし娘 誰が言ったか知らないが 女三人揃ったら 姦しいとは愉快だね。ベリーグッド ベリーグッド お笑い お喋り ミュージック 明るく歌って ナイトアンドデイ ピーチクパーチク かしましい」でお馴染みのテーマソングは、音曲漫才師の都上英二の作曲、脚本家の大村淳一の作詞。

メンバー間では芸の上の喧嘩が絶えなかった。他の芸人に迷惑が掛かるため、売れっ子であった若手時代から異例のかしまし専用の楽屋や、運転手付の自動車が用意された。ネタ合わせ中にも口論が絶えないので、台本は数度稽古するだけで舞台に掛けていた。

姉妹仲が悪い訳ではなく、私生活では三人にマネージャーや歌江の夫(照枝は現在独身、花江の夫は故人)らを加えて、よく卓を囲んでいる。

かしまし娘
かしまし娘
かしまし娘(1958年「大阪の女」という映画のシーン)

かしまし娘 1956年ブロマイドかしまし娘は、元松竹芸能所属の姉妹音曲漫才トリオ。道頓堀角座がホームグラウンドで、松竹芸能の看板芸人だった。

グループの名付け親は当時北野劇場の支配人だった角倉節朗(後の関西テレビ編成局長)。最初はカタカナ表記のカシマシ娘だったが、北野劇場が間違えて看板をひらがなで書いてしまい、この方が語感が良いとなった。

1956年8月31日に南街劇場の幕間でデビューする。歌謡曲・浪曲・民謡・小唄・長唄を一通りこなせる器用さと若手三姉妹トリオは他にないこと、民放テレビ局の勃興期に当ったことでドン底から一転して人気者になる。

父は尺八吹きから安来節を歌うなど多芸で母は出雲高子という芸名の追分唄いで一家で旅回りの一座を組んでいた。三人とも3歳で初舞台を踏む。2023年で芸歴91年、87年、84年になる。

コロムビア盤 かしまし娘
コロムビア盤 かしまし娘
2025年 上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞

上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞2025年10月12日に太田市社会教育総合センター 1F 大ホールにて撮影した新田太鼓です。市民芸能フェスティバルで一番人気でした。

新田太鼓の鼓風組はシニア世代がメインの奏者で衣装も新田太鼓のレギュラーメンバーと違い黒づくめ。鶴の舞と言う演目は初めて聞いたのですが、演奏前の声出しが若干宗教めいた雰囲気を感じました。演奏者は太鼓だけを叩いていれば定番になる雰囲気ですが・・・

新田太鼓保存会は、1983年に「新田義貞」挙兵650年を記念して発足。新田太鼓を創作郷土芸能として保存、普及すると共に和太鼓の演奏を通じて、日本の伝統文化と地域文化の振興を目指し、青少年の健全育成に寄与することを目的として精力的な活動を行っています。

会員数は52名で、年齢・職業共に様々です。1995年には小中学生を中心とした子供太鼓チーム「小太郎組」を結成しました。

上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞
上州 新田太鼓 鼓風組 鶴の舞