家族に作る"世界で1つの編物" | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

ふるさと歴史館43「編物文化」

藤田編物教室 1953年開校藤田編物教室 1956年藤田芳子さん1960年代の編物教室1960年代の機械編み1960年代は、家族のためにセーターなどを編む女性が多く、編物教室は花嫁修業のために通う人で賑わいました。1960年代、冬が訪れる前に仕上げようと人々が精を出したのは編物です。

現在とは異なり既製品はさほど出回っておらず、毛糸を買ってきて家族の分の帽子やセーターを編む人が多くいました。

子供の成長にあわせてデザインや大きさを変えて編み上げられた服。暖かくて身体にぴったり。子供たちにとっても特別な一枚でした。

こうした人が増えるのにあわせ、賑わっていくのが編物教室です。弘前市の藤田芳子(ふじた・よしこ)さんは編物教室を始めて70年、99歳のいまも現役です。

「大変だとは余り感じなかった。楽しかった。仕事が楽しい」「生徒がたくさんいたときは機械編みのザッザッという音がすごかった。必ず生徒が1台買うから、30人いれば30台」

当時は、人々の暮らしが上向きファッションも様変わりしていた時代。藤田さんは最新の技術と流行を教えるために幾度となく東京の講習会に足を運んだといいます。

「(夜行列車で)朝早く上野に着いて、1日夕方まで講習を受けて、夕方にとんぼ返り。何回も行った」

苦労のかいもあり、教室の生徒たちはめきめきと腕を上げ、作品発表会やファッションショーを開くと毎回、大勢の人が詰めかけました。こうして、暮らしを支えながらお洒落を楽しめる編物は人々を魅了し、広く愛されました。

ただ時代が進むにつれて工場で生産された安くて多彩な既製品が出回るようになり、次第に編物は、人気に陰りが見えるようになります。

これと歩調を合わせるかのように、藤田さんの教室も生徒は減っていきいまは3人になりました。それでも藤田さんはこれまでと変わらず、編物の魅力を自分の手で仕立てることの価値を伝え続けています。

「その人の体型にあわせて、本に載っていない自分のアイディアでやるのが楽しい。世界に1つ!」

寒さ厳しい雪国、青森で編物は家族の身体だけではなく心も温め、生活に潤いを与えました。

藤田編物学院 2009年
藤田編物学院 2009年