



「写楽祭」を演出したのは、スネークマンショーのプロデューサー役だった桑原茂一である。ステージで司会を務めた咲坂守と畠山桃内の正体は、DJの小林克也と俳優の伊武雅刀だったが、当時その素性は伏せられていた。
スネークマンショーは1976年にラジオ大阪の番組として生まれ、78年4月からはTBSラジオに移って放送を続けた。番組は先鋭的な選曲による音楽と政治からドラッグまでをネタにした際どいコントで構成され、一部で支持を集める。
YMOの細野と高橋もスネークマンショーのファンだった。彼らは当時、まとまったアルバムを制作する時間がなかったため、スネークマンショーにコントを提供してもらい、ギャグと音楽で構成されるミニアルバムの企画を思い立つ。
しかしイベントは先述のとおりの騒ぎとなり、成功したとは言いがたい。当日のスタッフと桑原サイドは綿密な打ち合わせや意識のすり合わせもできないまま本番を迎えたため、ステージ上の咲坂と桃内の掛け合いを音声が拾えなかったり、余興にスポットライトが当たらなかったりとトラブルが続発した。それもあって観客の不満が爆発したのである。
坂本によればスネークマンショーとのコラボは細野と高橋が決めたもので、事前にきちんとした説明はなかった。それに対する苛立ちが「写楽祭」で観客への怒号という形で表れた。
1980年6月5日にYMOがスネークマンショーとコラボしたアルバム『増殖』がリリース。同作は当初10万枚の限定プレスの予定が、予約の段階でその倍の注文が集まり限定は解除となる。
「写楽祭」での観客の反応を思えば意外にも、『増殖』はYMOファンに好評をもって受け入れられ、盤中のコントで繰り返される「いいものもある、だけど悪いものもある」などは流行語になった。
文春オンラインより記事を引用