



太田には、悔やみきれない1球がある。1969年夏、日本中の目が三沢-松山商の2日がかりの激闘にくぎ付けになった。8月18日の決勝は、延長十八回を終えて0-0で決着がつかず、翌19日に決勝史上初の再試合が行われた。
「一回一死一塁。3番の樋野和寿を追い込むと高めにつり球の直球を投げたんです。当時は高校生も木製バット。いつもは空振りかバットに当てられてもファウルでした。しかし、打球は左翼のラッキーゾーンまで弾みました」
太田は準々決勝から4連投。前日は18回、262球を投げていた。自慢の直球に、もはや力はなかった。
「朝起きると体中に鉄板が入っているようで、肩が上がりません。洗面所では両手は動かさず水をためて顔を近づけて洗ったほど。本当にボールが投げられるのか不安でした。三沢もその裏、前日に232球を投げた右腕の井上明から1点を奪いましたが、救援した左腕の中村哲にかわされました。1-4の七回に再び1点を返すと、外野に回っていた井上が再登板してきて、反撃を断たれました。三沢にも2年生の控え投手がいましたが、私は1年の秋から公式戦はもちろん、練習試合も殆ど一人で投げていました。それが当たり前。松山商は左右の二本柱を持つ、当時では画期的なチームでした」
太田は六回に自らの暴投で3点目を許し、野手に失策が出て4点目を失った。
「再試合は、みんな疲れていましたね。前日の延長が無制限だったらと思います。延長に入ると、投球の際に左足を上げるのもよいしょという感じでした。それでも体がボールのリリースポイントを覚えていて、力を入れるのはその時だけ。車が下り坂で勝手に加速するように、何イニングでも投げられる気がしましたね」
試合は2-4で負け、太田の甲子園は終わった。今夏で、100年目を迎える高校野球。東北勢にとって全国制覇は見果てぬ夢だ。
「ただ試合直後は、私は負けたことより、これで終わったという達成感でいっぱい。涙は出ませんでした。あれから46年。たまに、勝ちたかったと思うことはあります。青森県勢は、まだ甲子園で優勝がありませんからね」
サンスポの記事より引用しました
