「ネェ〜プタァのもんどりこぉ〜」。6月末、青森県弘前市元長町の養生幼稚園。元気な掛け声で太鼓練習をする子どもたちに囲まれ、三浦呑龍さん(68)が筆先に集中していた。同幼稚園のねぷた絵を師匠・石沢龍峡から引き継ぎ、今年で46回目。「なんでねぷた絵師になったの?」「どうして絵が上手なの?」。子どもたちの質問に「みんなが生まれるずーっと前から描いているからだよ」と答える。未来の担い手がこの中から生まれるかもしれないと、自然と笑顔になる。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、2年連続でねぷたの合同運行が中止となった。さまざまなストレスにさらされながら画業を重ねてきただけに、「ファンの方々に申し訳ない気持ちの一方、正直ほっとしている自分もいる」と話す。長年ねぷた絵を描いてきた大ベテランとはいえ、観衆にどう見られているかいつも気になる。
祭り期間、毎日のように沿道に出掛け、ねぷたの出来を確認しつつ、時として辛辣(しんらつ)な観衆の言葉に耳を傾ける。帰り道、ねぷたファンに声を掛けられることも少なくない。「今年も頑張ってもらった。来年もいいねぷたを」との言葉に、期待に応えようという責任感が湧く。
現状、自分の創作で手いっぱいなため、弟子を取る余裕はないという。いつの間にか目標にされる存在となったが、若いねぷた絵師も仲間。同じ目線でねぷたについて話し合えることが大事で、良い関係で接することができている。若いねぷた絵師の作品を見て「自分はこれではだめだ」と刺激を受けることもしばしばだ。
弟子は取っていないが、師匠から引き継いだように、後世へねぷた絵の技術や精神を引き継いでいかなければならないと感じている。小、中、高校、大学や市公民館で実演し、斜里町、台湾にまで足を運び、ねぷた文化を伝えているのもそのためだ。そうした機会に触れ合った人の総数は、優に万を超えている。
長年の経験で、下絵の段階からのこだわりと、平面を立体として捉えるため角度にこだわり、描く線の的確さが磨かれた。これまで最高の作品は、との問いには「最高のものは来年、再来年に出てくる。これまで、ひどいものを描いてきた。可能ならば描き直したい」と向上心は衰えない。
東京都墨田区、弘前藩の上屋敷があった跡地に「すみだ北斎美術館」が数年前にできた。隣接地区の錦糸町の同下屋敷があった場所には津軽稲荷神社がある。葛飾北斎が暮らした土地とはるか北の弘前市が伝統の糸で結ばれている。
呑龍さんは「浮世絵の評価が高いヨーロッパにねぷたを知らしめたい」と思い描く。その礎として「ねぷた絵のプロフェッショナルとして、寄せられた思いに期待以上で応えたい」と話す。半世紀のキャリアに裏付けられた言葉は重い。