三浦呑龍・幼少から絵のとりこ | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

ねぷた絵師・三浦呑龍、幼少から絵のとりこ

ねぷた絵師・三浦呑龍ヒバを使った曲げもの、靴裏の張り替え、下駄屋の鼻緒のすげ替え…。日本画家・ねぷた絵師の三浦呑龍さん(68)は、子どもの頃から手仕事を見るのが好きだった。

青森県弘前市茂森町にあった映画館では、新作に合わせて看板を描く職人さんの手さばきにくぎ付けになった。ポスターを基に、濃い色から順に色を重ねていく職人技を、日曜日は朝から昼を挟んで夕方まで、飽きることなく見続けた。

竹森節堂のねぷた絵物心がついた時には既に絵のとりこになっていた。てるてる坊主の絵、汽船、黄色い鼻先が特徴の弘南バスが夜に走る場面と、気に入った絵柄は何カ月も書き続けた。もちろん、ねぷたの絵も。小学校に上がるとノートや教科書の余白はねぷたの絵で埋まった。生まれ育った場所から、弘前高校の生徒がねぷたをつくっている様子も見えた。近所に有名なたこ絵師、伝統工芸師、ねぷた絵師もいた。自然と、ねぷたのことで頭がいっぱいになっていった。

名人とうたわれたねぷた絵師の一人、竹森節堂が新寺町の報恩寺本堂でねぷたを描いているのも見に行った。同じく名高い絵師で、後に師匠となる石沢龍峡のねぷた絵の額が近所の菓子屋に飾られていた。小遣いをため、量り売りのおかきを買いに行ったのは、何よりその絵が見たいからだった。いずれの絵も子どもながら「超一流」と感じ、脳裏に焼き付け、憧れた。

初めて大型ねぷたの筆を執ったのは高校を卒業した1971(昭和46)年、18歳の夏。兄が勤めていた紙屋が出している、ねぷたの絵を描かせてもらった。それから満50年を迎えた。

縁あって、70歳を過ぎて引退間近だった名人・龍峡の弟子となった。「雲の上の人だった龍峡先生宅に通うと、まるで実の孫のようにかわいがってくれた」。帰宅する時は玄関先まで見送りに出て、見えなくなるまで見守ってくれた姿を覚えている。指導を受けるというより、話を聞きに行くだけ。

つけてもらった雅号「呑龍」は、師匠を飲み込み、追い越すようにという願いを込めたと聞かされた。今も、心のモヤモヤがある時は龍峡の墓前で手を合わせる。

呑龍さんは、ねぷたに関われたことは「一言でいうとラッキー」だったという。ねぷたや日本一の桜を誇る弘前に生まれたのは偶然か必然か。両親はもう鬼籍に入ったが「何よりも産んで、育ててもらったことに感謝している」と語った。

<みうら・どんりゅう 本名・啓二(けいじ)。弘前市生まれ。昭和50年、名人とうたわれるねぷた絵師、石沢龍峡(故人)に師事し、キャリアを重ねている。津軽錦絵作家協会会長>

ねぷた絵師・三浦呑龍、幼少から絵のとりこ
ねぷた絵師・三浦呑龍、幼少から絵のとりこ