弘前ねぷたの解説 | スチャラカでスーダラな日々

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故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

※なぜねぷたは扇形なのか?
ねぷたの殆どは扇形をしています。ではなぜ扇形が主流となったのでしょうか?それは津軽藩の藩祖・津軽為信の幼名が扇丸だったことに由来していると言われます。ねぷたの開きの部分には牡丹が描かれていますが、これは津軽家の家紋だったと言われています。他藩のような国換えも無く、藩主が同じ地に居続けたことで津軽の文化は発展してきました。ねぷたもそうした影響を強く受けています。それでは弘前ねぷたについてもう少し深く掘り下げてみましょう。

#扇形でないねぷた
ねぷたは扇形ばかりではなく人形型のねぷたもあります。ですが、完全な人形型は青森市のねぶたになります。弘前で言う扇形でないねぷたは、組ねぷたと呼んでいます。青森との最大の違いは、開きに牡丹の絵が描かれることです。裏には見送り絵もあります。元々人形型の組ねぷたが主流だったのですが、これは費用と製作日数がかかるので、安価な扇形に取って代わられました。ねぷたも日々進化を続けていますが、2004年の必殺ねぷた人の前ねぷたでは八角形の台座が出てきました。ねぷたの台座と言えば四角形が主流ですが、ねぷたは新たな進化を迎えているようです。

★ねぷた絵とその構成
ねぷた絵は江戸末期の浮世絵の影響を強く受けています。明治に入り勇壮な武者絵が市民に好まれ定着して今日に至ります。天保のベストセラー小説『絵本三国志』『水滸伝』『漢楚軍談』等のさし絵が絵師のテキストになりました
見送り絵は明治時代に鐘馗や関羽が描かれ、大正時代以降は唐美人や虞美人を描くのが主流となり、鏡絵の勇壮さに対して優美な妖艶さが見送り絵に要求されるようになりました。

☆ねぷた絵の場所と名前
鏡  絵……扇ねぷたの上の部分にあたる勇壮な武者絵(表側)
見送り絵……裏面の扉絵(裏側)
袖  絵……扉絵の両側の絵(裏側)
開  き……三角形の部分で鏡絵の受け皿にあたる部分。主に牡丹が描かれる(全体)
額  絵……開きの下に見える台の部分。正面に雲漢と書かれる(下側)
肩…………裏表の絵をつなぐ横の部分。町名などが書かれる(横)
た  め……鏡絵と袖絵の一部、半円になっている部分

歌舞伎絵が描かれている部分が鏡絵、“津軽衆”と書かれた場所が肩です。

牡丹の花が描かれている処を開きと言い、漢雲・武者絵が書かれている部分を額絵と言う。
額絵の正面には必ず雲漢(漢雲)が書かれ、両脇の絵は眼が進行方向を向いています。

女性が描かれている部分を見送り絵と言い、その周りの絵を袖絵と言う。

開きに描かれた牡丹は旧津軽藩主・津軽家の家紋にあたる。雲漢とは漢雲のことで、乾いた川…つまり天の川のこと。肩の下には雲が描かれる。また、見送り絵と額絵の縁にも内側には蔦が、その周囲には雲が描かれています。

★ねぷたの運行隊形
ねぷたの運行を眺めると、まるで上洛する際の大名行列に似たところがあります。ここでは、順を追って運行の様子を紹介します。
町印………………町名や団体名を入れた、ねぷた運行の先頭を飾る燈籠。
一人持ち燈籠……子供が持つ扇、角燈籠や金魚ねぷた。
前ねぷた…………大型ねぷたの前に登場する小型ねぷたや担ぎねぷた。
曳き手……………ねぷた本体につないだ綱を歩いて引っ張る人達。子供は小若・中若のハッピを着る。
大型ねぷた………ねぷた本体。電動式モーターや発電機が額絵のスペースに入る。
囃し方……………太鼓・・ジャガネ(小型のシンバル)を鳴らす。一ヶ月も前から公民館・小学校で練習中
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