今年も半年が経とうとしています。我が故郷の青森県弘前市では、ねぷた絵師が最も忙しい時期を迎えています。今年も数台のねぷた絵制作の依頼を受けている三浦呑龍絵師のアトリエから、2006年6月に収録したビデオを御覧下さい。
■弘前ねぷたの由来
田村麿説平安初期の武将、坂上田村麿が征夷大将軍として東北に遠征。 敵をおびき寄せるため大灯籠と笛、太鼓で仕掛けたのがきっかけ…しかし、この田村麿は青森に来ていないらしい。
津軽為信説
津軽藩 初代藩祖・津軽為信が上洛中の文禄2年(1593年)、諸大名から田舎者扱いされた鬱憤を晴らそうとお盆の供養に大型灯籠を作って京の市中を練り歩いたのがきっかけ…しかし、当時の記録から“ねぷた”らしき文字が見当たらない。
眠り流し説(最有力)
青森県内でも立秋(8月8日~9日頃)までは、暑さが続き、寝不足になりがち。そこで竿の先に灯籠を下げ、「ねんぷたっコ流れろ~」と唱えながら、邪悪を流し豊作を願って歩いた昔の風習が発展した…と言われています。
「眠い」を津軽弁で表現すると、弘前では「ねんぷて」といい、青森では「ねぶて」といいます。弘前に住んでいる私も眠い時は「ねぷてぇ」と言っています。
日本の祭りのほとんどは、五穀豊穣を祈願し神を祭るところから由来しています。虫送りや七夕祭など…「ねぶた」も、元はと言えば、こうした季節行事の一つで、大衆の心から生まれたものでしょう。
正徳3年(1713年)に弘前で「ねふた(nehuta)」を出した…と言う記録が残っています。その頃は普通の灯籠のようなものが、扇形になり「ねぷた」と呼ばれるようになりました。更に県内各地に広まって呼び方にも変化がついたといわれます。弘前では戦前まで“けんかねぷた”と言うものがありました。ねぷたの運行が終わったらねぷた同士を突き合わせます。けんかが終われば壊れたねぷたを岩木川に流していました。現在はそのような風習も無くなり、ねぷた絵はねぷたの骨組みから丁寧に剥がして保存します。
この骨組みも来年また使えるように鉄やアルミで出来ています。
現在ねぷた(neputa)と表記されて運行される自治体は弘前市、五所川原市(立ちねぷた)、黒石市、平賀町、藤崎町の五市町です(他の市町は未確認)ねぶた(nebuta)と表記されるのは青森市とむつ市です。いずれもねふた(nehuta)から 変化したものだと言われています。それはねぷたを引っ張る時の掛け声の違いで分かります。
弘前の場合
ねぷたが指定のルートから運行を外れると、『ねぷたのもんどりっこ』と言いながら地元の町まで帰ります。いわゆるねぷたの戻りです。これはお囃子も音の始まりがガラッと変わるので面白いです^^
また運行中に前のねぷたとの兼ね合いで、ねぷた同士の間隔が詰まることがあります。この時はただ停まっているのではなく、別の音でお囃子が続きます。
ねぷたのお囃子は進む・休み・戻りの三種類があります。“進む”は良く聞く御馴染みのお囃子です。“休み”は、ねぷたが詰まってその場に長時間居る時に流されるお囃子。“戻り”は土手町運行の場合、中土手町の後半に差し掛かるとよく聞くことができます。“戻り”はある意味、青森の凱旋に近いものがあるので“進む”と違って明るいのでしょう

ねぷた祭りの掛け声
五所川原に関しては、やっつけてしまえ…と言う津軽弁なので、何とか掛け声を換えて欲しいです(>_<)
弘前は早くやれ…と言う津軽弁がヤァヤァドやれ…となります。早くやってしまえと言うことです。
黒石のヤレヤレ…も似たような意味です。やれやれ(>_<)…ではありません。
青森のラッセーラーは、ねぶたに使うローソクを「出せ出せ」と言っていたのが「ラッセーラーラッセーラー」になったのではないか?という説です。
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