弘前ねぷた画法 | スチャラカでスーダラな日々

スチャラカでスーダラな日々

故・植木等氏の御冥福に因んでkeiのスーダラな日々を紹介します。故人の映画のようにスイスイと軽妙な人生を送りたいものです☆彡

昨日に引き続いて三浦呑龍絵師のねぷたを紹介します。以下の動画は、昨日紹介したねぷたが運行されている様子です。一番最初に見られるのが、団体名を表示する“町印”・次に本ねぷたが流れます。表絵を“鏡絵”と言い、武者絵が中心で題材は三国志・水滸伝・日本の歴史が描かれます。裏絵の枠に描かれている絵は“見送り絵”と言い、女性の絵が描かれています。一般的に唐美人や武将の妻などが描かれています。

本町ねぷた愛好会

以下の写真は2002年7月に撮影協力してくださったねぷた絵師、小笠原翠渓(翠山)さんとねぷた絵です。翠渓さんは、弘前のねぷたをあまり出していません。
主に隣の平川市(旧平賀町)で出す大型のねぷた絵を描いています。旧平賀町は道路が広いので、比較的大型のねぷたも出せます。

小笠原翠渓・1

小笠原翠渓・2

上の写真は約8時間後の絵です。筆が早い絵師では一週間に2~3枚のペースで仕上げていきます。

小笠原翠渓・3

上の写真は蝋描きをしているところですが、蝋はすぐ固まるため筆が早くなくてはなりません。ねぷた内部の明かりを際立たせる為に、筆を進める前に既に蝋描きされています。絵師の描く順番としては、最初に下絵、次に下書き、墨描き、蝋描き、色塗りで終了です。ねぷた絵を描いた直後は、絵の水分が抜けないためにしばらく乾かしておきます。

小笠原翠渓・4

現在ではねぷたに使う和紙は殆どナイロン入りの和紙です。多少の雨に耐えられる特性を持っています。戦前までは雨に弱く、破れやすい奉書紙が使われていました。戦後はキャラコ布地の和紙が使われましたが、彩色に難があり照明もあまりよくありませんでした。昭和50年以降、現在の和紙を使っているそうです。和紙(素材はロンテックス)の大きさは95cm×60mのロール巻きなので、これを各町内会のねぷたの大きさに合わせて切ります。

小笠原翠渓・5

照明の変遷ですが、大正時代までは和ローソクを使用。戦前までは洋ローソクを使用。戦後10年間はカーバイト(アセチレンガス)使用。昭和30年以降はバッテリーを使用しています。昭和50年からは発電機もねぷたに搭載され始め、現在ではそれがほとんど主流を占めています。

ねぷたの大きさですが本ねぷた全体の大きさは平均して高さが7m程度。2004年は高さが9.5mのねぷたが出ましたが、ねぷた運行の際に電線が邪魔になり5.5m位に縮んで運行された所もありました。そうなるとねぷた絵の半分が開き(牡丹絵)によって見えなくなります。弘前で大型ねぷたを見るのは難しいですが、隣町の平賀では道路が広いので大型ねぷたが出陣します。写真撮影に協力して下さった小笠原翠渓(翠山)氏も平賀町のねぷた絵を描く絵師の一人です。