野口久美です。
マイヒストリーの続きです。
【マイヒストリーを最初から読みたい方はこちら】
・ 活発な女の子、夢はお絵描きやさん【マイヒストリー① 幼少期】
【前回の記事・マイヒストリーはこちら】
--------------------------------------------------
おうちで自分の時間を作りたい。
最初はそんな思いではじめた、子供服の手作り。
子供たちに手作りの服を着せていくうちに、だんだんと素材にこだわるようになりました。
市販の天然素材でないお洋服を着ると、子供が ”痒い” "痛い" というようになったのがきっかけです。
それから私が作るものは、天然素材にこだわるようになりました。
上の子が年少、下の子が1才の時。
ひなたの1回目の転職をきっかけに、ずっと専業主婦でいるという私の思考はなくなり、子供が二人とも幼稚園に行くようになったら仕事をする、という未来が入ってきました。
”おうちで仕事をしたい”
そう思った理由は、子供たちが小学校低学年までは、おうちで子供たちの帰りを待ちたい、から。
というのが建前の理由だったけど
本音は、時間や場所を囚われて、やりたくもないことを生活のために働くというのが嫌だったから、かなと思います。
外に働きに行き、帰ってきてから家事をする。
そういう未来をイメージした時に、『やだ』って本音が出てきて、『じゃぁどうするか?』と考えた時に、自分で仕事を作るという答えが出てきました。
娘が幼稚園に入る前までに、基盤を作る。
そう決めて、じゃぁ何をしようかと考えはじめました。
そう思いはじめてから、数週間。
”天然素材のハンドメイド服屋さんをやろう”
これは考えていたわけでもなく、いきなりの思いつきでした。
実際に今、天然素材で子供服を作ってるし、できる。
そう思って5ヶ月後にネットショップオープンの日を決め、準備に取り掛かりました。
販売していい生地かどうか、
販売に使わせてもらえるパターンを探し、
ネットショップをどこで作るか、調べまくりました。
そして同時に
今まで作っていたものの中で、パターンから起こしていたスタイとハンカチを、ヤフオクで出品してみました。
写真の撮り方も、作品の良さが伝わるように、自分なりに工夫して。
ヤフオクでは、出品したものは全て購入していただけた事が、自信にもつながりました。
販売用に購入した生地とパターンを使って、たくさん試作も作りました。
試作品は、全部子供たちの洋服へ。
その中からこれっていうものを、販売することにしました。
もちろんモデルは、我が子。
ハンドメイドで活躍されている人たちのブログを読み漁り、研究しました。
ひなたの転職が決まってから3ヶ月。
私たちは福岡から佐賀へ、引っ越しました。
予定通り、
2013年8月にネットショップをオープン。
知ってもらうために委託やイベントの募集を調べ、連絡しまくりました。
ありたがいことに、すぐに見つかり、数カ所のレンタルボックスに置かせていただくことに。
置かせてもらっている間も、新作をどんどん作り、ブログでの発信、写真撮影。
どんなものが求められているかが分からなかったので、いろんな種類を作りました。
子供たちのモデルの写真を撮る時が、一番大変でしたが、一番楽しかったです。
いかに可愛い!欲しい!と思ってもらえるような写真を撮れるか。
写真を撮ることは元々好きだったので、試行錯誤しました。
この時期に
レンタルボックス、委託でよく求めていただいていたのが ”ガーゼ用品”。
出産祝いへと、贈り物で選んでもらうことが増え、出産祝いセットとして、販売をはじめました。
リュックなんかも、作ってたよ。
イベント主催者がブログで見つけてくださり、イベント出店もするようになりました。
イベント出店の時も
私の両親がたくさん手伝ってくれて、搬入・撤退を手伝ってくれたり、イベントの間、子供たちを見ててくれたりしました。
委託先からの要望もあり、大人服や通園グッズを作ってみたり。
本当にいろんなものを作りました。
写真も、どうやって撮るか、毎回試行錯誤していました。
イベントに出すようになってから、レンタルボックスを終了。
今度は、1day ショップに挑戦させていただきました。
娘を連れて。
おかげで子供たちは、ママは家で仕事をするもの、と定義されています。笑
お友達に声をかけてもらい、2日間に渡るイベントにも出店。
テントやトルソー、ラックなど、全部揃えていました。
ポストカードも出したりしてたよ。
2015年。
この頃が、私のイベント出店全盛期かな。
1日の売上が10万超えることもありました。
が、この辺で私の中で違和感が出てきます。
イベントに出れば出るほど、イベントの売上は上がるけれど、そこからネットショップへ繋がることがほぼなかったのです。
毎月、イベント用の作製に追われ、ご飯も食べず、寝もせず、過ごす日々。
子供たちをみてもらいに、実家の両親に来てもらい、イベント中も子供たちとは離れ離れ。
周りの作家さんたちは、倒れただの、入院しただの、それが当たり前のような情報交換。
そこまで走り続けないと、やっていけない世界なのだろうか。
私、なんのためにやってるんだろう。
という思いが出てきました。
そう思っている時に、決定的な出来事がありました。
ある日の夜。
いきなり家の中で、あり得ないほどの腹痛と吐き気、めまいに襲われて、冷や汗をたくさんかいて、動けなくなりました。
ひなたは仕事で、いない。
ヤバイ、どうしようと思いました。
ありがたく、そのタイミングで
子供たちをみてくれていた義母が家に送ってくださり、私の異変に気付き、義実家総動員で私を病院へと運んでくれました。
原因は、”脱水症”。
すぐにひなたが駆けつけてくれて、朝方まで、点滴。
途中、トイレに立った時に目の前が真っ白になり、「あ、私死ぬ」と思いました。
この出来事があってから、私は働き方の改善を考えました。
労働時間を酷使する働き方では、体が持たない。
ネットベースの働き方に変えたい、と。
お洋服を天然素材にこだわっていたくらいだから、もちろん使うものや食生活も徹底していました。
怖いくらいに。
でもそれだけでは、健康でいられないこともわかりました。
どうやったらネットショップを知ってもらい、数ある中から選んでもらい、ネットショップベースで仕事ができるだろうか。
そんな時に
大阪で開催されていたセミナーで学びたい!って思いました。
小さい子を2人置いて、大阪までひとりでいくか?
夏休みだったら行ける?
いや、でもすぐに行きたい!!
そう思って、母に相談しました。
私「大阪に行きたいんだよね。夏休みだったら行けるかなと思ったけど、でもすぐ行きたいんだよね」
母「行ってきたらいいやん。早い方がいいんじゃない?」
私「子供たち、お願いしてもいい?」
母「いいよ」
当時、ひなたは「俺に支障がないのなら、ご自由にどうぞ」スタイルでしたので、私が大阪へいくことに対しては、ご自由に。という感じでした。
ただ、子供は俺はみない、資金も自分でなんとかしてね。
なので、両実家がサポートしてくれるのは、本当にありがたかったです。
脱水症で倒れてからイベント出店を減らしていたので、資金繰りも厳しい時でした。
でも、ここで何かが変わる。
しかも、1週間後くらいの開催で、2日連続で違うセミナーがある!
もうチャンスとしか思わなかったです。
全財産をはたいて、行きました。
2015年、6月の出来事でした。
この行動が、今の私を作っている原因のひとつになっています。
あの時、子供が、ひなたが、資金が・・・を理由に動いてなかったら、今の私はないかもね。
大阪でのセミナーへ参加したことで
ネットでの発信の大切さや、自分と向き合うこと、私が理想とする おうちで仕事をしていくためのベースが作られてきました。
脱水症で倒れたことは、私にとって、人生の転機でした。
今学んでいる経営学でも
事が成るは逆境の時、事が破るるは順境の時
と、学んでいます。
まさにですね。
ここから、私のネットへの可能性に気付く日々が始まります。
ネットでの基盤作り、ガーゼ専門店、曼荼羅との出会い【マイヒストリー13】 へつづく。
野口の最新情報はこちら