【2コリ4:16-18】肉体が老いても私の中の人は新しくなる | あなたの心と魂を励ます[ちゃぷれんろごす]

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こんにちは、なぎさです。

 

 

 

今回は、新約聖書のコリント人への手紙第二4章16~18節から、この肉体が老いていっても、日々私の中は新しくなっていくというのを見てみましょう。

 

 

 

クローバー

 

 

 

ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

私たちの一時の軽い苦難は、それとはくらべものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見える者は一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

コリント人への手紙第二4:16-18

 

 

 

下↓にある私のおすすめの本にある「わたしは決してあなたをひとりにしない」の今日(12/18)の箇所がまさにここですね。

 

 

 

外なる人というのは、私たちが人として生まれ成長していき、やがて老いていくこの肉体と精神のことです。

 

内なる人というのは、魂の一番奥にある、自分が自分たらしめている中心部分のこと。

この部分をキリスト教用語では「霊(れい)」と呼んでいます。

文字としては幽霊の霊と同じですが、日本のキリスト教がいう霊と翻訳している言葉は神様の息吹のこと。

 

 

創世記で神様がアダムを神様の形に似せて造った時に、鼻から「神の息」=「霊」を吹き入れたんですね。

 

 

 

少し横道に反れますが、ここを少し掘り下げてみましょう。

 

 

 

クローバー

 

 

 

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

創世記2:7

 

 

ここの「人は生きるものとなった」というのは、単に生命活動が開始されました~ではなくて、神様から見て生きている者となった、という事。

 

 

神様から見て、魂の最奥の個体としての中心部分に「霊」がある状態が「生きている」で、生命活動があっても「霊」が入っていないと「死んでいる」なんです。

 

 

 

アダムとエバ(イブ)は神様から見て生きている人間なのですが、エデンの園で蛇の一声に誘惑されて食べたら死んでしまうと言われていた果実を食べちゃう。

 

その時、神から見てアダムとエバは死んでしまいます。

 

これは生命活動が停止しましたという死亡ではなく、神の霊がアダムとエバそれぞれの中心から追い出されるという、「神から見て」「神様との関係が切れる」=「死んだものと同じになる」です。

 

 

以降、人類は生まれた時から、自分の中心に神様の霊がいない状態でスタートをします。

私も、あなたも、聖人とかの人も、使徒と呼ばれた人たちも、預言者も。

「霊」の有無から見ると死んだ状態で産まれているのですね。

 

 

神から見て死んでいる私たちが、神様の働きによって、誰かや何かから神を知って受け入れる。

 

信じた瞬間に、私たちの一番深いところ…自分たらしめている中心に、神様が聖霊として、文字通り永遠に住んでくださる。

 

この時、私たちは「神様から見て生きている者」になるのですね。

 

 

 

 

クローバー

 

 

 

 

さて話を戻しましょう。

 

 

 

人間として成長し老いていく私たちは、日々、確かに衰えていきます。

年齢だけでなく病気でも機能は弱ったりしますね。

 

ですが、内なる人という、この聖霊は日々成長し続けるのです。

 

毎日、一新されているので成長し続けます。

この一新も、昨日までの頑張りがリセットされてまたゼロからスタートしましょう!ではありません。

気持ちも新たに「今日も一日がんばるぞいキラキラ」です。

 

 

日々私たちは「聖化」といって、現在進行形で本当に極々僅かずつ、後退したり前進したりを繰り返しながらキリスト(救い主)に似た者に近づく成長をします。

 

これは私たちの自力で成長するものではありません。

それが出来たら苦労しませんね。

 

神様が聖霊を通して、私たちに気付きやこれまでの思いの方向転換とかトラブルという名で足元に石を置いたりして成長させてくれます。

ハイハイさせてもらったり、つかまり立ちさせてもらったり、両手を握って「あんよ」の練習をさせてくれる感じです。

 

 

そしてその成長は「栄化」=永遠の救いが完成した状態に進みます。

この完成時、神を信じる者は「栄光の姿」という主と同じ姿へと変えられます。

これは未来形ですね。

 

 

少し小難しくなりましたが、この完成というのが、なんと…私たちのこの肉体の死後とされています。

 

 

 

つまりどういうこと?

 

 

出生 ←神から見て死んでる

神様を信じる ←神から見て生まれた!生きている

肉体は老化

私の中に住む聖霊は聖化に向かって成長中

肉体の死 ←栄化確定

栄化 

 

 

です。

 

 

 

 

クローバー

 

 

 

 

苦難の中にいるから偉いのではなく、この苦難が功績なのでもないです。

 

苦しい時でも神様がそばにいるんだと個人的に神様と関係が結ばれている人は、肉体が死してもなお「私」という者は生きて、二度と涙を流さなくてもいい「栄光の姿」というのになる…栄化するのですね。

 

それが死後だというのです。

 

 

 

ですから、肉体の死がすべての終わりではないのですね。

 

その先があるんです。

 

 

「人は1度生まれて2度死ぬ、キリストを信じる者は2度生まれて1度死ぬ」

的なことを言われます。

 

 

 

 

これは

 

<ルート1>

霊が死んだ状態で誕生

  →肉体の死

    →最後の審判での魂の死

 

 

<ルート2>

霊が死んだ状態で誕生

  →霊が内住して神から見て生きた者として誕生

    →肉体の死

      →最後の審判で魂は死なない

 

 

です。

 

聖霊が内住している人は後者の<ルート2>ですから、死のその先に苦しみのない平和な日々が待っています。

 

 

 

クローバー

 

 

 

 

それにしても、絶望的な状況の中にいる方にとって、今のシンドイ現状は最初の聖句にあるような「一時の軽い苦難」なわけがありません。

 

他の人から見たらなんてことない問題なのかもしれないけど…、

長生きして120年くらい生きられる目線から見れば、そりゃ一瞬の出来事かもしれないんだけど…、

 

 

でも、今この問題に直面している「私」にとってはとんでもなくしんどく、長く、重たい苦難です。

 

 

 

 

ですが、ここにあえて神様の目線を知るのです。

 

神様にとって1000年は1日レベル。

本当に困り果てている問題ですが、神様から見れば一時の軽い苦難なのですね。

 

この「聖化」するとか「栄化」するというのに比べたら、この問題は極々軽いモノと言ってもさ……、

 

 


……とそう簡単に目線を切り替えられたら苦労はしません!!

 

 

ですから、

 

私もそう思えるように、どうか、主よこの問題のハードルをグッと下げてください!と祈りつつ。

下げられないハードルであれば、その足元をくぐって抜けられるようにしてください!と祈りつつ。

迂回ルートを示してください!と祈りつつ。

ホントもうシンドイんで、この問題を遠ざけてください!と祈りつつ。

 

 

 

 

生きてる間でも神様は傍にいますから、孤軍奮闘しなくてもOKです。

もうダメだとガッカリしなくても大丈夫です。

 

自分のやれる闘いはしつつ、出来そうにない事は神様に投げましょう。

 

死後も神様は私たちを傍に置いてくださいます。

 

 

 

 

だから何もなくポツーンと孤独ではないことを胸に刻んで、シンドイけど今日も生きよう。

 

うまくいかなくても、

失敗しても、

悪い結果になっていても、

つまらない毎日でも。

 

 

 

 

 

 

 

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