こんにちは、なぎさです。
今日は、旧約聖書にある詩編27篇を見ていきましょう。
キリスト教の聖書は、世界創世からイエス・キリストが初臨するまでの旧約聖書と、初臨から昇天し教会が誕生して、世の終わりの幻が書かれている黙示録までの新約聖書がひとつになっています。
詩編は、私がちょこちょこ話に出すイスラエル王国2代目の国王であるダビデが、初代国王サウルから逃げている時に多く詠まれた歌です。
聖書ではちょうど真ん中あたりにあります。
今回お話する27篇も、やはりダビデがサウル軍から逃げている時の歌です。
一つのことを私は主に願った。
それを私はもとめている。
私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。
主の麗しさに目を注ぎ
その宮で思いを巡らすために。
それは 主が
苦しみの日に私を隠れ場に隠し
その幕屋のひそかな所に私をかくまい
岩の上に私を上げてくださるからだ。
今 私の頭は
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は 主の幕屋で喜びのいけにえをささげ
主に歌い ほめ歌を歌おう。
聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。
私をあわれみ 私に答えてください。
あなたに代わって 私の心は言います。
「わたしの顔を慕い求めよ」と。
主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。
どうか 御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを
怒って 押しのけないでください。
あなたは私の助けです。
見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神よ。
私の父 私の母が私を見捨てるときは
主が私を取り上げてくださいます。
─詩編27:4~10
聖書は倒置法を使って書かれていることが多いです。
これをスマートに表現しなおすと、
主が(私の)苦しみの日に、私を(主の)隠れ場に隠し、その幕屋の密かな所に私を匿い、岩の上に私を上げてくださるから、私は私の命の日の限り、主の家に住むことというただ一つのことを求めている。
となります。
ですから、
私が願う→神が私を匿ってくれる
ではなく、
神が私を匿ってくれるから、私は神に願う
になります。
はい、最初に神様の見返りのない恵みがあるのです。
私たちが何かをするから神様が見返りとして施しをしてくれる、のではないのですね。
ちなみに、信じる気持ちも、イエス・キリストについて誰かから聞くそのタイミングも、内容も、全部あなたに対して最初に神様があなたに与えているものです。
それを信じるも信じないも自由です。
私たちは常に、神様から与えられていますが自由意志も尊重されています。
神様は、私たちがただの土(と同じ成分)からできていることをご存知です。
いわゆる塵芥です。
その私たちに御心を寄せてくれている神様に、私たちは
「私が(あなたを)呼ぶこの声を聞いてください」
と言わせてくれる。
そして
「あなたのしもべを怒って押しのけないでください」
と願えます。
これは人権のない奴隷的な下僕ではなく、お仕えする者という意味合いです。
福音書内でイエス様が弟子に「わたしについてきなさい」と言いますが、これは「わたしの命令に従いなさい」という強制命令ではなくて、「自分で選んでついてきたかったらついてきなさい」です。
ですから、有無も言えない下僕ではなく追随者です。
あなたに自主的に付いて行く私の未熟さ、不出来さを怒らないでください。父であるあなたに縋りついている腕を押しのけ払いのけないでくださいという願いです。
これらの願いの言葉は、神様と共にいて、神様をとても信頼しているから言えるのです。
何よりも大切なことは、あなたが主と共にいることです。
常に自由意志が与えられていますので、あなたは主から離れることができます。
主はいつもあなたと共にいたい。
その主から伸ばされている手をあなたが握るかどうか、ただそれだけです。
握る選択をするのもまた、主の御業。
あなたと神様が個人的関係を結べると、こんな積極的で大胆な祈りもできるのですね。
神様ー、私はすぐ気持ちが乱れてしまうから、どうか私を見捨てず傍にいてください!
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