3日ほど前、1年ぶりで友人と会い、楽しいお酒を飲みました。
翌日、お礼の電話を入れると「よく飲んだねぇ。あなた1人で、8合!、8合!」
20年以上前からの付き合いで、会うたびに、飲んではいたのですが。
多分、300ミリの冷酒を4本ですから、6合ちょっとだとは思いますが・・・。
それでも、ここ20年以上そんなに飲んだことはありませんでした。
私は、30歳を超える頃までは、月に1度位、しかも量もそんなに飲まなかったのです。
飲み方が変わったのは、真冬のロシア(当時は、ペレストロイカの直前の、未だソ連)に、訪ソ団の一員として、2週間滞在し、毎日昼食と夕食は、各訪問先での宴会を経験してからです。
ソ連の接待側は、たった1回だけ。
私達は、昼と夜、休みが1回も無く、2週間宴会・・・。
ある企業では、外は、零下20度、訪問先の企業長(社長さん)が、ノルディックスキーのスポーツマスターとかで、全く経験の無い私たちを、5キロ林の中を走らせ、その後サウナ。
ヨレヨレの状態で、宴会開始。熊のように大柄な人たちが、今日ばかりは、思いっきり飲んで楽しんでもらおうと、ウォッカでの乾杯。ショットグラスなのですが、乾杯毎に飲み干すのです。
あんなに飲んだことはありません。
酔いを醒まそうと、抜け出して外へ。「全然寒くない!」勿論、連れ戻していただいたのですが、あのままでは、死ぬところでした。
ちなみに、本来、零下20度の外では、息をするたびに、鼻の中が痛いのです。まつげも凍ります。そこに、酔って防寒具も無しで出ていたのですから、通りすがりの方も直ぐわかりますよね。
しかも、その日は、宴会が終わってから、夜行寝台列車で、エストニア共和国(当時は未だソ連に所属していたバルト三国の一つ)の首都であるタリンに行く予定でした。
駅まで約3時間位のバスでの記憶は、全くありません。
駅に着き、列車に乗ると、同行しているソ連の国際局の人(お目付け役)が出してきたのが、アルメニアコニャックと小ぶりなりんご、それにハム。
『うっそ~ぉ!』本当に、そう思いました。
タリンに着き、何箇所か訪問し、ホテルにやっと到着。
30分後に集合し、バスで会食会場へ行くとの事。
バスは走ります。延々と果てしなく続く、真直ぐな真冬の道を、100キロ程のスピードで。
時々バスのお尻がスゥッーと横滑りするのを感じます。
また、運転手が、時々止まって、新聞紙を丸めて降りて行きます。
不安になり、通訳の人に聞くと、「大丈夫です。慣れているので。あれはエアブレーキが凍って、利かなくなってきたので、新聞紙を燃やして暖めているんです。」 「・・・・・。」しかも、勿論タイヤはノーマルタイヤ!
2時間以上走り、16世紀頃の武器庫を、改造したと言うレストランに着き、副大臣を筆頭とするお偉いさんと会食。日本で言えば、東京から長野県の上諏訪まで、食事だけのために行って帰ってくるのです。
大陸と島国とは、こんなにも感覚が違うのか、と考えさせられました。
昼間の、お偉いさんとのフォーマルな会食の時にも、食事とは別の席が、そばに用意されているのですが、コーヒーカップがセットされている横に、日本のぐい飲みくらいのグラスがセットされていました。
『水用では、ないよなぁ』と思っていたら、案の定、アルメニアコニャック。食後酒なんですねぇ。
このままでは、横道に逸れっぱなしで、何処に行くのか判らなくなってきましたので、この辺にして、
とにかく、胃痙攣になった人が1人出ただけで、無事(?)帰国したのですが、私は、『俺は飲めるのだ!』と判ってしまったのです。
父は、全くの下戸で飲めません。
従って、生まれてこの方、晩酌などという習慣は全くありませんでしたので、基本的に、今でも自宅にお酒類はありません。
もっぱら「飲みにケーション」に力を入れてきました。何せ『飲める=カッコ良い』と30過ぎになってから、思い込んでしまったのですから。
しかし、東日本大震災の時に仕事で仙台にいて被災して、仕事先の社長さんの付合いで約2ヶ月間、毎日お酒の付合いをした後、殆ど全く飲まなくなりました。いや、飲みたくなくなったのです。
年齢のせいかも知れません。
この話も始めると、止まらなくなりますので、何時か書くとして。
妻は私の事を「アルコール依存症」だと確信していたようですが、そうではなかったのです。
ここ半年は、1ヵ月間、1滴も飲まないこともあります。
私の場合、晩酌の習慣が元々ありませんから、飲まなければ飲まないで済むのです。
その代わり、飲んだら食べません。食べたら、おなかが一杯になるので食べません。
体に悪いから、と言われても、食べながら飲むと言うことが、どうしても出来ないのです。
そんな私が、3日前に7合弱飲んだのです。
『危ない!』私の心が叫んでいます!