Absence sharpens love(1)
Absence sharpens love(2)
***
「とりあえず、おうちへ帰ろうか」
「お願いします」
葉の口から出てくるどこか他人行儀な言葉に慣れなくて不思議な気分になる。
まるで初対面のふたりのよう。
ほんの数時間前までは、楽しくおしゃべりして笑って手を繋いでいたのに。
後悔してもしきれない、私のせいで葉の記憶が消えてしまった。
いつか葉の記憶は戻ってくるのだろうか。
私が今出来る事と言っても、思いつくことはほんの些細なことばかり。
エンジンをかける為鍵をまわせば、きゅるんと微かな音を出す。
その後一度小さく車が振動して、おんぼろの愛車が息を吹き返す。
「じゃあ出発しますね」
おかしなもので、葉が他人行儀だと私までいつも通りにはいかなくなってしまう。
――――葉に向かって”しますね”、なんて変なの。
「あの、月子……さん」
「え、あ、はい」
病院の駐車場を出てすぐ、葉がおずおずと私の名前を呼ぶ。
その響きも、やっぱりいつもの葉とは違って、私の返答もなんとなくおぼつかない。
「えぇと、俺と月子さんて……兄妹、とかじゃないですよね?」
「……へ?」
あ、そっか。
葉の症状にパニックになってて、そう言えば私が一体葉の何なのかって事を話していなかった。
それはきっと、記憶の無い彼にとってはさぞや不安だった事だろう。
しかし兄妹。
姉弟じゃなくて兄妹だと何故か漢字が浮かんじゃったのは気のせいよね。
「うん、”姉弟”じゃないよ。そのー、一般的には、まぁお付き合いしていると言うか……」
なんだろう、改めてこう言うのって、スゴク恥ずかしい。
しかも言ってる相手が葉ってのも、なんとなく珍妙な気分……。
「あー、そうなんですか。」
その声がなんとなくほっとしているように感じて、運転しつつちらりと葉を盗み見る。
先ほどまでの強ばっていた表情も心なしか緩んでいるようで、私も少し安心した。
よし、じゃあもう少しフランクにしてみても良いよね。
「それでね、あの、すごく敬語が慣れないのね」
「あ、俺ですか?」
「うん、そう。だからもう、全然気にせず話しちゃっていいから」
「わかりまし…じゃない、わかった。努力してみ、する」
「ふはっ、カタコト(笑)」
「あはは、難しいな」
私が吹き出すと、葉もつられて吹き出した。
葉だけど葉じゃない、そんな違和感を何故かふたりとも楽しんでいるかのようにすら思う。
「いきなりは無理かもしれへんけど、なるべく敬語にせえへんようにしますね」
「あ、うん無理はしないでね!葉がラクなほうで構わないし」
「ん、おおきに」
ゆっくりだけど、私と葉の間にあったギクシャクした空気が消えて行っているように感じる。
それだけで、きっと大きな進歩に違いない。
Absence sharpens love(1)
***
「いわゆる記憶喪失というものですね」
目の前の医師が微塵も表情を変えないまま、さらりとそう言い放った。
やはりか、と言う思いと、本当に?と言う思いが混じって、その言葉に何を返答するべきか分からない。
葉の姿を横目で見ると、彼もやはり混乱しているのだろう。
眉間に皺を寄せたまま、じっと白衣の医師を見据えている。
「話を聞く限り、一之瀬さんは断片的では無く、発症以前の出生以来すべての自分に関する記憶が思い出せない状態にあるようです。ちなみに記憶喪失とは俗称でして、医学的には全生活史健忘と言います。」
「全生活史健忘」
医師の言葉を葉が繰り返す。
私もその言葉を頭の中で繰り返してみた。
「あの、それで記憶と言うのは、戻るんでしょうか」
一番聞きたかった事は間違いなくこれだ。
記憶喪失と言う言葉は色々な場所で耳にするが、実際にそうなったという人を私は知らない。
だからこそ、この先葉の記憶は一体どうなってしまうのか、それが最も気になる事だった。
「大抵の場合、自然と記憶が戻ってくる事が多いですね。ただしそれが明日なのか1年後なのか何十年も先なのかは分かりません」
「そうですか……」
「ドラマや映画などで事故の時と同じショックを与えたら記憶が戻った、なんて話がありますが、あれはあくまでフィクションですからね」
幸い、検査の結果、脳にも骨にも異常は無く軽い打撲程度で済んでいる。
とにかく今は無理に思い出そうとせず、ゆっくり過ごす事が優先でしょう。
そう医師は私達に告げ、あっけないほど短く診察の時間は終了してしまった。
会計を済ませ、外に出る。
時刻は正午まであと10分と言う所、気温はぐんと上がって日傘をさす人の姿がちらほらと見られた。
隣の葉の姿をちらりと盗み見る。
何かを考えているのだろうか、彼は神妙な顔をしたまま遥か遠くをじっと見つめていた。
何か声をかけたほうが良いのか。
いや、ただでさえ混乱している状況に余計な口を挟むのは良くないのかもしれない。
ぐるぐる考えて歩いているうち、気づけば私達は愛車の前に到着していた。
「待ってね、今鍵をあけるから」
「ん」
小さく答える葉に微笑みかけ、小走りで車に乗り込み助手席の鍵を開ける。
すぐにドアは開き、するりと葉が乗り込んだ。
その所作は、やはりいつもの葉とは違う。
どこかよそよそしくて、強張ったようで、そうだ、あの時のようだと思いだした。
一番最初、葉と会った駅の駐車場。
あの日も葉は、こんな感じで助手席に乗り込んだ。
「あ……―――!!」
叫んだ瞬間、体が宙に浮く。
スローモーションの世界、葉の驚いた顔、そしてこちらへ伸びる腕が私の手を強く握りしめて。
どすん、と衝撃が走る体、少し遅れて体中に痛みが走った。
「う……痛……」
一瞬の出来事でなにがなんだか理解できないまま、目をぎゅっと閉じて痛みに耐える。
そうしているうちに、自分がしでかした事が何だったのかようやく頭の中で再生がスタートした。
そうだ、今日は朝からとっても良いお天気で。
私も葉もたまたまお休みがかぶって。
それじゃあ買い物にでも行こうって葉と部屋を出て、マンションの階段に差し掛かった時。
たわいもない冗談に答えるために後ろを向いた瞬間、うっかり足を滑らせて落下したんだった。
ああ情け無い。
我ながらなんて間抜けな事をしたのだろうか。
そこまで反省をした所で、ぐっと腕に力を入れ上体を起こした。
と同時に私の体から何か重いものがずるりと床へ落ちる。
「あ、れ」
焦点が瞬時に合わずぱちぱちと二度早く瞬きをして、床へと視線を送る。
私の体に覆いかぶさるようにあったもの。
起き上がった反動で、力なく床へ落ちた姿。
そこにいたのは、紛れもなく葉だった。
「よ、葉?!葉!」
名前を呼んで体を揺さぶってみる。
けれど葉はぐったりとしたまま、ぴくりとも動かない。
私をかばって、あの時一緒に落ちたの?!
ああ、そうだ。
だってあの瞬間、私の腕を引いたのは葉だったんだから。
「救急車……!!」
足元にちらばったカバンに這いずるようにして近づいて、携帯電話を探す。
焦れば焦るほど、うまくいかない。
指先が小刻みに震えて、背中に冷たい汗がじわりと湧き出てきたのが分かった。
「やだ、葉、やだよ……ごめんね……やだよ……」
口から溢れる謝罪の言葉、ようやく見つけた携帯を開いて119の「1」をタッチした瞬間、ぐいとスカートの裾が引かれた。
反射的に振り返ると、意識を取り戻した葉が苦しそうな顔でこちらを見つめている。
「葉!!ごめんねごめんね!!大丈夫?!どこか痛いとこ―――…」
「俺、なにして……」
私の声を遮るように、葉は右手で自分の頭を押さえるようにしてそう呟く。
「ごめんね、あのね、私が階段から足滑らせて、葉がかばってくれて」
「階段……かばう?」
このあたりにきて、葉の様子が何やらおかしいことに気付いた。
眉間に皺を寄せているのは痛みと戦っているからかと思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
床に臥せったまま顔だけを上げて、じっと何かを考えているような……。
「……葉?どうしたの?」
「葉て、俺?」
「……え?」
「俺、だれやっけ?」
え、もしかしてこれって……。