(つづき)
まずは豊川稲荷から。
境内に入ってすぐのところにお参りしたユウさん。
「ここは違う」と言われたそうです。笑
「2箇所お参りする場所があるって言われました」とユウさん。
1箇所は本殿のようです。
私:もう1箇所はどこ?
なにしろ、神様がたくさんいらっしゃるので。笑
ユウ:「細い路地の奥」って(降って)きます。
ここを抜けると、「三神殿」があります。
ユウさん:円満な対人関係をもたらす神様のところです。
私:なんで、そこだったの?
ユウさん:これから急激にいろいろな人達と出会うことになるので、その人間関係が円滑にいくように、ってここに呼ばれたみたいです。
私:ふうん、そうなんだ。
豊川稲荷を後にして、日枝神社へ向かいます。
日枝神社は小高い丘の上にありますが、階段の横にはエスカレーターもあります。
ユウさんも私も躊躇することなく、エスカレーターに乗ります。笑
本殿に参拝してから、末社へ。
山王稲荷神社、八坂神社・猿田彦神社の3つが並んでいます。
ユウさんいわく、「呼ばれたのは、山王稲荷神社でした。手がビリビリしました」とのこと。
私:呼ばれた理由は何だったの?
ユウさん:もっと上に行く感じ。もっと上とつながるのかな。
ユウさんが参拝しているあいだ、境内の木に聞いてみました。
「新たな力をもらうために、わざわざこうして神社仏閣へ足を運ばなくてはいけないの?」 って。
「マサコ、(その理由を)いつも講座で教えているじゃないか」と言われて苦笑い。
そもそも私が神社仏閣に興味がないのは、どうしても「人間が作った建造物」としか思えないからなのです。
神社などのある場所はおそらく土地のエネルギーがとても高い(高波動な)場所なのだと思います。
その場所へ行くことで、エネルギーチャージをしたり、浄化したりできるのでしょう。
ただ、人々にはどこにそのような土地があるのか、わからない。
なので、建物を造り、「ここに神様がいらっしゃる」と視覚化しているのではないかと。
そうすれば、人々は、「参拝に行く」というかたちで、自然に高波動の場所へ行くことができるからです。
今回、ユウさんや私が呼ばれたのも、「その場所の波動と同調」するためなのだと思います。
ここ2年ぐらい、けっこう神社などへ行く機会が増え、全く知識のなかった私は、最初のころ、
「え? ここもアマテラス?」
「え? ここもスサノオノミコト?」
と混乱をきたしていました。
分霊ってなに? わけみたま?
えー?
神様って、そんなに都合よくコピーできるの?
って。
「神様」と名のついた方は限られているので、きっと「分霊」というかたちでその名前をお借りしているのね?
だって、どんなに立派な神社(という建造物)を造っても、「○○の神を祀ってある」といわなければ人は来てくれないから。
参拝しているつもりでも、実際はその「高波動のエネルギー」の場所に同調のために行っている……だとしたら、なんて上手なしくみでしょう。
(あくまでも私個人の見解です)
10年前、友人がヨーロッパ旅行へ行った際、有名な大聖堂をめぐっていたら、「上」から、
「ここに神はいない。これらは象徴にすぎない。人間はこのような象徴を造らないと、神を意識しないからだ」
と言われたそうです。
私が以前、デンマークの大聖堂へ行ったときも、同じようなことを言われました。
キリスト像に、「あなたはキリストですか?」と尋ねたら、
「私はキリストではない。
この姿は象徴にすぎない。
私は、大いなる神だ。
そして私はあなたでもある。
私の光を感じなさい。
これがあなただよ。」
という答えが返ってきたのです。
そのころから、私は「信仰心って何だろう?」と考え続けていました。
一昨年、8月から12月まで毎月京都へ通い、その都度、思いついた神社仏閣を訪れたのですが、12月に「今回が最後になるだろう」という気がしました。
そのときに訪れたのは八坂神社です。
バスに乗っていたのですが、「八坂神社前」の停留所に止まった瞬間、「ここへ行かなくちゃ!」と思って急いで降りたのです。
早朝で人はいませんでした。
参拝をして帰ろうとしたときに、ひとりのおばあさんがやってきました。
宮司さんと、巫女さんも。
ご祈祷を受けるようです。
その様子を見ていたときに、ふと、疑問が湧きました。
「世界中で人はさまざまな神を信仰しているけど、そもそも信仰心ってなんですか?
信仰する神がちがっても、信仰することに意味があるの?」
目の前の神様に尋ねてみました。
すると……。
(つづく)
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