(つづき)
翌日はクウさんとお出かけです。
今までなら京都行きの新幹線の中で、「行くべき場所」のヒントが降ってきたり、京都へ着いてから思いついたりしていたのですが、今回は何もありません。
京都行きは今回で一区切りということなのでしょう。
先々月(10月)に来たときに気になっていた「八坂神社」へ朝早く行ってみました。
主祭神は素戔嗚尊 (すさのをのみこと)です。
ヤマタノオロチを退治した神話があります。
で、「そうなの? ヤマタノオロチを退治したの?」と問いかけてみると、
「ああ、神話ではそういうことになってるね」という返事が返ってきて、大笑い。
早朝で参拝者は他に居なかったのですが、本殿に宮司さんと巫女さんが現れ、続いておばあさんがやってきて、祈祷が始まりました。
神妙な面持ちで座っているおばあさんをぼんやりと見ていたら、ふと、「信仰心ってなんだろう?」と思いました。
宗教っていろいろあるし、本来は心のよりどころにするものなのだろうけど、宗教戦争が起きていたりするし、人間にとって「信仰心って、一体、何なんだろう?」って。
そのままを神様に尋ねてみると、
「人々が信仰している神は象徴にすぎないし、宗教も関係ない。
信仰心というのは、自身に「光」を入れることだ」と教えてくれました。
「言葉」や「想い」は素粒子です。
自分が話したり、想ったりすると、そのエネルギーが発振されます。
発振したエネルギーは、ブーメランのように自分に返ってくるしくみです。
「感謝」「ありがとう」など、波動の高いエネルギーを発振すると、結果的に自分に返ってくる(そういう現象が起きたり、そう思えるような人と出会ったりする)のですが、
「信じる」という気持ちも同様です。
私たちは宇宙の一部です。
神様的なエネルギーもまた宇宙の中に存在すると考えるならば、「神を信じる」という行為は、「自身を信じる」ことでもあります。
何もないのに「信じる」というのは難しいのですが、信仰する象徴があれば「信心」しやすくなります。
そして、象徴を通して「信心」を送ると、結果、自分に光を送ることになるのです。
信心とは自分を信じることであり、自分に光を入れること・・・・。
う~ん、深いです・・・。
八坂神社のあとは、クウさんの提案で二年坂、三年坂を案内してもらいました。
清水寺に寄り、「胎内めぐり」を体験したあと、ぶらぶらと歩いていると、白い石畳の続く先に立派なお寺があるのが目につきました。
「あそこは何?」と聞くと、クウさんも知らないとのこと。
地元のクウさんが知らないのなら、行ってみなくちゃ!
ということで行ってみました。
大谷祖廟といって、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のお墓があるお寺でした。
誰もいません・・・。
本堂を覗くと、親鸞聖人の大きな御影像が安置されています。
入り口には「ご自由にお入りください」と書いた紙が貼られています。
外は冷たい雨が降っています。
本堂はホットカーペットが敷かれていて、ひざ掛け用の毛布まであります。
ちょっと雨宿りさせてもらおうかしら・・・・。
障子を閉めて、外の世界を遮断し、のんびりしながら、親鸞聖人といろいろお話をさせていただきました。
そういえば、実家は浄土真宗だったなあと思い出し、今日ここに来たのも、何かの縁かしら? と自分のルーツを聞いてみると、はるか昔に
神や仏に仕える仕事をしていたことがあるらしく、今生でこういう仕事をしているのも、それが関係しているようでした。
「なんで、京都に呼ばれていたの?」と聞くと、視せられたのは、両手に光を載せて、新幹線で京都から東京へ移動するイメージでした。
これまで京都には興味がなかったのですが、8月から毎月訪れるたびに、街を歩いていると、妙な居心地の良さを感じ、呼吸が楽で、「ああ、この街、好きだなあ!」と魂が喜んでいたので、きっと深い過去世があるからなのでしょう。
おそらく平安時代です。
その頃の「光」をせっせと東京へ運んでいたのでしょうか。
かくして、京都行脚の旅は最終回を迎え、ほぼ時を同じくして「サバ缶生活」も終わり、2020年、いよいよ「星読み」の謎解きが加速していきます。
そして、このタイミングで降ってきたキーワードは、「法則」です。
姉妹版ブログ
『聖なる樹のヒプノセラピー物語』も読んでね!