良寛さんの災難に遭う時節には・・・ 自分用メモ
「江戸時代の禅僧、良寛さんの言葉で」文政11年(1828年)12月8日の山田杜皐宛て「三条大地震の見舞い」より
※ 越後三条大地震(旧暦文政11年11月12日-太陽暦では12月18日発生)M6.9で死者1559人。
災難に遭う時節には 災難に遭うが良く候
死ぬ時節には 死ぬが良く候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
※ 越後三条大地震(旧暦文政11年11月12日-太陽暦では12月18日発生)M6.9で死者1559人。
災難に遭う時節には 災難に遭うが良く候
死ぬ時節には 死ぬが良く候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候
仏教勉強会について
昨年来、皆様にお声かけをしている仏教勉強会ですが、ことしも
1月16日(日)に
第5回めになりますが、開催させていただきます。
会の詳細をお知りになりたい方、もしくは参加を希望される方はこちらをご参照くだしさい。
http://twipla.jp/events/3322
つきましては、この勉強会の内容について少しご説明させていただきたいと思います。
当勉強会は当初は、小池龍之介著「考えない練習」を基本テキストにして、
臨床的に日々の生活をストレスなく(できるだけ低くして)生きる方法を学ぼう
という視点で始めました。
今後も、「この著作の勉強を致しますよ」といった告知がなくとも、折にふれて、
仏教的な生活態度はどういうものであるかを参考にする為に
この本を使っていきたいと思っています。
さてここで、当初は・・・と言っているのは、勉強会の力点が、臨床的に仏教を
活用しますというところから、基本となる仏教的発想を先ず大雑把に捉えて
そこから、いろいろと発想していこういうところに移ってきたからです。
普段私たちが無意識の中で行っている西洋的な「ものを考えるパターン」とは、
その発想の原点に於いて基本的な態度(前提)が異なる、仏教的思考を学ぶこと
によって、普通の生活における問題解決の選択肢が一気に広がる可能性が
そこにありそうに思います。
様々な場面で行き詰まりが生じているように思える現代社会を突破していく
ひとつのやり方がそこにあるのかもしれないと個人的に思っているのです。
さて、そういう事で、仏教勉強会でやっていることは、
仏教的なモノの考え方について、みんなで考えて行こうというものです。
現時点では、仏教のなかでも「禅宗」の方法論をきっかけに始めていますので、
様々な諸問題に対し、比較的主体的に解決していきたいという考えを持たれている
そういった方に向いているかもしれません。
従いまして以下にあげる内容は現在、副次的にしか取り扱いません、
(全く取り扱わないものもあります)ので、これにつきましてはご了承くださいませ。
① 個々の仏様や経典を取り上げて、それらが如何に偉大であるかについて述べること
※ 個別の佛や個別の経典を信仰する功徳を述べることに終止すること。
② 仏教を学ぶことによって、来世に於いて極楽浄土に行けるようになりますよ
といった、具体的なご利益に関わるお話。
③ 因縁などに関連して、個別の方々の業やら、それに関する運命的なものを
判定し解決しようとするようなこと。
④ 仏教史に関しては、この勉強会においては必要最低限にとどめ、
あまり重視していません。
誤解なきように申し上げますが、①から④についてはそれをやる仏教がすべて、
胡散臭いものであるからそれをやらないということではありません。
浄土信仰や「他力本願」といった仏教も非常に良く出来た、高度化した宗教体系
であり素晴らしいものであります。
ただ、本勉強会は最初に申し上げましたように、まず、基本的な仏教の発想を抑えること
を目的としており、それを、身近なところから実践に移すしていく方向性の提示までで
とどめようと思っています。
なぜならば、非常に深い精神性に触れる部分や、信仰にのっとた生き方を
如何にすべきかといった深い部分に関しては、専門家たる僧侶について学ぶのが
本筋であり、本勉強会はあくまで在家の立場で、出来る範囲において仏教の
思考方法を学ぶまでを扱うべきであると考えるからです。
以上あまり抽象的な話をしてもわかりにくいかもしれません。
具体的に過去の勉強会で使用した、簡単なレジュメをPDFにしてありますので、
ご興味のある方は、メールなりメッセージにて、ご連絡くださいませ。
eメールにて、そのPDFにした資料をお送りさせていただきます。
その上で、面白いと思われた方、ご参加いただけたら幸いに存じます。
よろしくお願いいたします。
合掌

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1月16日(日)に
第5回めになりますが、開催させていただきます。
会の詳細をお知りになりたい方、もしくは参加を希望される方はこちらをご参照くだしさい。
http://twipla.jp/events/3322
つきましては、この勉強会の内容について少しご説明させていただきたいと思います。
当勉強会は当初は、小池龍之介著「考えない練習」を基本テキストにして、
臨床的に日々の生活をストレスなく(できるだけ低くして)生きる方法を学ぼう
という視点で始めました。
今後も、「この著作の勉強を致しますよ」といった告知がなくとも、折にふれて、
仏教的な生活態度はどういうものであるかを参考にする為に
この本を使っていきたいと思っています。
さてここで、当初は・・・と言っているのは、勉強会の力点が、臨床的に仏教を
活用しますというところから、基本となる仏教的発想を先ず大雑把に捉えて
そこから、いろいろと発想していこういうところに移ってきたからです。
普段私たちが無意識の中で行っている西洋的な「ものを考えるパターン」とは、
その発想の原点に於いて基本的な態度(前提)が異なる、仏教的思考を学ぶこと
によって、普通の生活における問題解決の選択肢が一気に広がる可能性が
そこにありそうに思います。
様々な場面で行き詰まりが生じているように思える現代社会を突破していく
ひとつのやり方がそこにあるのかもしれないと個人的に思っているのです。
さて、そういう事で、仏教勉強会でやっていることは、
仏教的なモノの考え方について、みんなで考えて行こうというものです。
現時点では、仏教のなかでも「禅宗」の方法論をきっかけに始めていますので、
様々な諸問題に対し、比較的主体的に解決していきたいという考えを持たれている
そういった方に向いているかもしれません。
従いまして以下にあげる内容は現在、副次的にしか取り扱いません、
(全く取り扱わないものもあります)ので、これにつきましてはご了承くださいませ。
① 個々の仏様や経典を取り上げて、それらが如何に偉大であるかについて述べること
※ 個別の佛や個別の経典を信仰する功徳を述べることに終止すること。
② 仏教を学ぶことによって、来世に於いて極楽浄土に行けるようになりますよ
といった、具体的なご利益に関わるお話。
③ 因縁などに関連して、個別の方々の業やら、それに関する運命的なものを
判定し解決しようとするようなこと。
④ 仏教史に関しては、この勉強会においては必要最低限にとどめ、
あまり重視していません。
誤解なきように申し上げますが、①から④についてはそれをやる仏教がすべて、
胡散臭いものであるからそれをやらないということではありません。
浄土信仰や「他力本願」といった仏教も非常に良く出来た、高度化した宗教体系
であり素晴らしいものであります。
ただ、本勉強会は最初に申し上げましたように、まず、基本的な仏教の発想を抑えること
を目的としており、それを、身近なところから実践に移すしていく方向性の提示までで
とどめようと思っています。
なぜならば、非常に深い精神性に触れる部分や、信仰にのっとた生き方を
如何にすべきかといった深い部分に関しては、専門家たる僧侶について学ぶのが
本筋であり、本勉強会はあくまで在家の立場で、出来る範囲において仏教の
思考方法を学ぶまでを扱うべきであると考えるからです。
以上あまり抽象的な話をしてもわかりにくいかもしれません。
具体的に過去の勉強会で使用した、簡単なレジュメをPDFにしてありますので、
ご興味のある方は、メールなりメッセージにて、ご連絡くださいませ。
eメールにて、そのPDFにした資料をお送りさせていただきます。
その上で、面白いと思われた方、ご参加いただけたら幸いに存じます。
よろしくお願いいたします。
合掌
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「正しい事」を主張する危険について
ホリエモンがおせち問題に言及「自殺者が出るまで執拗に追求は続く」
http://news.livedoor.com/article/detail/5246248/
この発言を受けて自分なりに思いTwitter上でつぶやいた趣旨を文章を整え
備忘録的に此処に記録しておきたいと思います。
いじめの構造は「正しさ」をふりかざすとき、最もエスカレートするのではないだろうか?との常々からの思いがこの記事を読んで沸き上がってきた。
「正しいもの」どうしが衝突し、それが宗教戦争と化した時、それによって沢山の戦死者が
でている話を聞いて、仏教国でよかったね、あの人達もそのあたり、真摯に反省して欲しいよね、
と言うことは簡単であり、実際に良く聞く論法だ。
ただ、正しいことを他人に押し付けて人が死ぬ構造は戦争ばかりなのか?
そうではないだろうと思う。
とても悲しい死のひとつに、戦死とともに自殺がある。
10年以上連続して3万人もの戦死者がでる内戦が続く国があったとしたら、その国って、どんな国だろうと思われるのだろうか?
この文脈における戦死者を自殺者に置き換えたのが、残念ながら実際の日本なのである。
この置き換えって完全に的外れなことなのだろうか?
自殺をする動機は様々に違ったものがあるだろう。
ただその様々な動機の中に共通するところが、世の中に対する「申し訳ない気持ち」が、
最後の最後の部分で、本人を実行に追い込む大きな「動機の一部」に成っているのかもしれないと思うのだ。
言い換えると「正しくない」ことを、してしまった、せざるをえなかった、その行為に対する贖罪の気持ちが背中を押しているかもしれないという事。
このように考えたとき、人が自殺しようとしている時にむきあう「正しさ」とはなんであるか、
すこし考えてみたいとおもう。
人生に失敗した ≒ 正しい生き方ができなかった。
このように考える流れは恐らく自然なことだろう。
そして、「正しさ」を追求するため、正しくないもの存在を否定する声が、世間から鳴り止まず、自分の中でも鳴り止まなくなってきたときに、実際の自殺に至らなくても、それは耐え難い苦痛となるのであろう。
他人を巻き込み、世の中をぶっこわすようなことをしては行けない。
ならば勝手に自殺せよ。といった極端な話をたまに聞く。
これはまさに正義の話なんだろうけれど、こんな発想から、物理的な(身体的な)暴力から
一般社会の人々はたしかに守られているのかもしれない。
でも、その結果、自ら命を絶ってしまい、その原因がはっきりしないまま自殺しちゃう人の大きな
流れが止まらない中で、この類の「正義・正しさ」の強要にどれだけの意味があるのだろうか?
もちろん、人を殺してはいけないといった明々白々の「正しくないこと」をするなという「正しい」主張が「いけない」とか「まずい」とか言っているわけでは決して無い。
そうではなく、どちらかというと中間にある適当に悪いことをしちゃったときの、量刑の問題が大問題なんだろう。
批判を覚悟で書いてみるが、1万円のお節料理の内容が全くもってひどすぎるもので、価値が完全にゼロであったとしても、その被害者のうけた損失は、リアルには1万円、これにプラス正月早々嫌な思いをした部分の慰謝、事実として一部腐ったものが混入して病気になったらばその賠償が必要となるが、これはまだ分からない。
この被害状況の事実を冷静に評価して、さらに、他の犯罪の量刑と比較して、今回やらかしちゃったあの会社の受けた制裁の大きさの妥当性について、よくよく考えて見たい。
有名な「目には目を」「歯に歯を」という刑事罰の基本を述べたハンムラビ法典が良く引用されるのは、人の報復意識は、受けた被害を大幅に上回って仕返ししたいと思うことが自然であるからだ。
その上で、その気持にすべてを任せると、永遠に報復の連鎖が止まらない悲劇に発展する可能性が
高いだろうということで、それにストップをかけようとしたため、目に対する被害は目に
とどめておけという事がこの法典の主旨なのだ。
「正しい」生き方をしていない気持ちは、おおきな苦痛なのだろうと思う。
この時に言う正しい生き方とはどういう事なのだろう。
いま、この日本で働いていない人の生活はおそらく、在るべき「正しい」日本人の生き方とは言えないのだろう。
自らの意思により「働かない」のか「働けない」のかはあまり関係ない。。。
すくなくとも「望ましい」生き方ではなく、その状態を積極的に勧める人は少ない。
就活中の学生にとっても、「内定が取れない」≒「正しく社会に出る準備が出来ていない」
このような状態にあるとの認識が普通なんだろうと思われる。
お正月に就職難の学生の状態を報道するものがあまりに多くて辟易するところだが、そんな学生の発言で「早く内定をとって親を安心させたい」ってのがあった。
「親不孝」はもっともわかりやすい「正しくない」生き方なんだろう。
いいかえると、大学3,4年生になって就職先が決まっている状態が「正しい」学生であり、世間全体がお前も早くその「正しい」状態になったらいいねと言う事がはばかれることは殆どない。
でもそれを言うの少し待って欲しい。
なぜならば、有効求人倍率が1.0を切っている時には、その要求を満たせない人がたくさんいる間違いのない事実が存在するのだから。
有効求人倍率とは、求人をしている企業のその求人数を、仕事につきたい人の数で割った値だ。
すなわち、この値が1.0未満で在るという事は、仕事につきたいと考えている人(選り好みを全くしなくても)の方が仕事そのものの数より多い事を意味し、それすなわち。仕事にあぶれる人は必ず発生する事を意味する。
そしてこの有効求人倍率そのものは、働こうとする人の行いが良いとか悪いとか全く関係が無いところで決まる。
同様に、全体としての内定率が低いのも全く学生のせいではない。
非常にわかりやすい「正しい」生き方をすべての人が全うできないことが原理的に明らかなのに、それを緩やかに(オブラートにくるんで)強いているのが、今の世間の就活生に対する態度なのではないか?
しかし、あえて繰返すが、その要求は「正しい」故、躊躇なく当事者を追い詰めていく。
絶対にできない(執行できない)「正しさ」を強要されたとき、人間の選択肢は「逃げる」しかないのだろう。
その逃げる先が今のこの現実の世の中どこに在るのか?
明確に現実的に答えられる人は少ないだろうと思う。
結果、最も簡単な逃げ場所が「あの世」ということになってやしないか?
では世間はどうしたら良いのか?
内定がとれない事実に対し、どこかで「しょうがない諦めろ」というしかないのだ。
仕事の絶対量が足りないのだから、ほかに生きる方法を提示するしか無いのだ。
しかしこれを具体的に言える大人が何人いるのか?
「正しくない」状態を
①強いられたとき
②気の迷いで、それをしてしまった時、
③ヨコシマな気持ちがあってその行為をしたとき、
①、②、③で罪の深さは異なるだろう。
それが量刑である。
し昨今の報道の馬鹿騒ぎは刑法上の量刑を遥かに上回る、社会的制裁を綿密な判断をすることなど全く無しに、気分で加害者に貸すことができる世の中になってしまったとの認識は筆者だけの感覚であろうか?
この「過ち」と「罰」のバランスが極めておかしなことになっていて、さらにその量刑がほとんど「気分」に支配されて決定されるとしたら、それは「いじめ」とどこが違うのか?
これらの行動をよりエスカレートさせるのが「正しさ」のお墨付きであったらその「正しさ」はなんのためにあるのだろう?
合理性の無い量刑により過度に厳しい「罰」が執行され、それをみてストレスを発散させる社会はまさに(魔女狩りの時代)・「暗黒時代」そのものと変わらないのではないのか?
そうではない、社会に必要なものはなにか?
おそらく、「赦す」こと、不完全であってもそれを「在るが儘に受け入れること」といった、人間のとても大事な感情に従って行動することなのではないか?
これが、極端に不足しているとしみじみ思うところだ。
奇しくも「ホリエモン」が、此の話の口火を切ったという事と、「失敗を許さない日本社会」が
チャレンジングなベンチャー育成の疎外となり、それが何十年も続く経済の低迷の原因と、
それなりに大きな関係があると主張するのは、こじつけに過ぎるだろうか?
こんなことを踏まえ、
次回の仏教勉強会のテーマを
『 「正しさ」と「あるがまま」を再考する 』
にしようかと考えています。
【初参加歓迎】 今年もやります 第5回仏教勉強会 1月16日(日)
mixi ⇒ http://ow.ly/3ynTf
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備忘録的に此処に記録しておきたいと思います。
いじめの構造は「正しさ」をふりかざすとき、最もエスカレートするのではないだろうか?との常々からの思いがこの記事を読んで沸き上がってきた。
「正しいもの」どうしが衝突し、それが宗教戦争と化した時、それによって沢山の戦死者が
でている話を聞いて、仏教国でよかったね、あの人達もそのあたり、真摯に反省して欲しいよね、
と言うことは簡単であり、実際に良く聞く論法だ。
ただ、正しいことを他人に押し付けて人が死ぬ構造は戦争ばかりなのか?
そうではないだろうと思う。
とても悲しい死のひとつに、戦死とともに自殺がある。
10年以上連続して3万人もの戦死者がでる内戦が続く国があったとしたら、その国って、どんな国だろうと思われるのだろうか?
この文脈における戦死者を自殺者に置き換えたのが、残念ながら実際の日本なのである。
この置き換えって完全に的外れなことなのだろうか?
自殺をする動機は様々に違ったものがあるだろう。
ただその様々な動機の中に共通するところが、世の中に対する「申し訳ない気持ち」が、
最後の最後の部分で、本人を実行に追い込む大きな「動機の一部」に成っているのかもしれないと思うのだ。
言い換えると「正しくない」ことを、してしまった、せざるをえなかった、その行為に対する贖罪の気持ちが背中を押しているかもしれないという事。
このように考えたとき、人が自殺しようとしている時にむきあう「正しさ」とはなんであるか、
すこし考えてみたいとおもう。
人生に失敗した ≒ 正しい生き方ができなかった。
このように考える流れは恐らく自然なことだろう。
そして、「正しさ」を追求するため、正しくないもの存在を否定する声が、世間から鳴り止まず、自分の中でも鳴り止まなくなってきたときに、実際の自殺に至らなくても、それは耐え難い苦痛となるのであろう。
他人を巻き込み、世の中をぶっこわすようなことをしては行けない。
ならば勝手に自殺せよ。といった極端な話をたまに聞く。
これはまさに正義の話なんだろうけれど、こんな発想から、物理的な(身体的な)暴力から
一般社会の人々はたしかに守られているのかもしれない。
でも、その結果、自ら命を絶ってしまい、その原因がはっきりしないまま自殺しちゃう人の大きな
流れが止まらない中で、この類の「正義・正しさ」の強要にどれだけの意味があるのだろうか?
もちろん、人を殺してはいけないといった明々白々の「正しくないこと」をするなという「正しい」主張が「いけない」とか「まずい」とか言っているわけでは決して無い。
そうではなく、どちらかというと中間にある適当に悪いことをしちゃったときの、量刑の問題が大問題なんだろう。
批判を覚悟で書いてみるが、1万円のお節料理の内容が全くもってひどすぎるもので、価値が完全にゼロであったとしても、その被害者のうけた損失は、リアルには1万円、これにプラス正月早々嫌な思いをした部分の慰謝、事実として一部腐ったものが混入して病気になったらばその賠償が必要となるが、これはまだ分からない。
この被害状況の事実を冷静に評価して、さらに、他の犯罪の量刑と比較して、今回やらかしちゃったあの会社の受けた制裁の大きさの妥当性について、よくよく考えて見たい。
有名な「目には目を」「歯に歯を」という刑事罰の基本を述べたハンムラビ法典が良く引用されるのは、人の報復意識は、受けた被害を大幅に上回って仕返ししたいと思うことが自然であるからだ。
その上で、その気持にすべてを任せると、永遠に報復の連鎖が止まらない悲劇に発展する可能性が
高いだろうということで、それにストップをかけようとしたため、目に対する被害は目に
とどめておけという事がこの法典の主旨なのだ。
「正しい」生き方をしていない気持ちは、おおきな苦痛なのだろうと思う。
この時に言う正しい生き方とはどういう事なのだろう。
いま、この日本で働いていない人の生活はおそらく、在るべき「正しい」日本人の生き方とは言えないのだろう。
自らの意思により「働かない」のか「働けない」のかはあまり関係ない。。。
すくなくとも「望ましい」生き方ではなく、その状態を積極的に勧める人は少ない。
就活中の学生にとっても、「内定が取れない」≒「正しく社会に出る準備が出来ていない」
このような状態にあるとの認識が普通なんだろうと思われる。
お正月に就職難の学生の状態を報道するものがあまりに多くて辟易するところだが、そんな学生の発言で「早く内定をとって親を安心させたい」ってのがあった。
「親不孝」はもっともわかりやすい「正しくない」生き方なんだろう。
いいかえると、大学3,4年生になって就職先が決まっている状態が「正しい」学生であり、世間全体がお前も早くその「正しい」状態になったらいいねと言う事がはばかれることは殆どない。
でもそれを言うの少し待って欲しい。
なぜならば、有効求人倍率が1.0を切っている時には、その要求を満たせない人がたくさんいる間違いのない事実が存在するのだから。
有効求人倍率とは、求人をしている企業のその求人数を、仕事につきたい人の数で割った値だ。
すなわち、この値が1.0未満で在るという事は、仕事につきたいと考えている人(選り好みを全くしなくても)の方が仕事そのものの数より多い事を意味し、それすなわち。仕事にあぶれる人は必ず発生する事を意味する。
そしてこの有効求人倍率そのものは、働こうとする人の行いが良いとか悪いとか全く関係が無いところで決まる。
同様に、全体としての内定率が低いのも全く学生のせいではない。
非常にわかりやすい「正しい」生き方をすべての人が全うできないことが原理的に明らかなのに、それを緩やかに(オブラートにくるんで)強いているのが、今の世間の就活生に対する態度なのではないか?
しかし、あえて繰返すが、その要求は「正しい」故、躊躇なく当事者を追い詰めていく。
絶対にできない(執行できない)「正しさ」を強要されたとき、人間の選択肢は「逃げる」しかないのだろう。
その逃げる先が今のこの現実の世の中どこに在るのか?
明確に現実的に答えられる人は少ないだろうと思う。
結果、最も簡単な逃げ場所が「あの世」ということになってやしないか?
では世間はどうしたら良いのか?
内定がとれない事実に対し、どこかで「しょうがない諦めろ」というしかないのだ。
仕事の絶対量が足りないのだから、ほかに生きる方法を提示するしか無いのだ。
しかしこれを具体的に言える大人が何人いるのか?
「正しくない」状態を
①強いられたとき
②気の迷いで、それをしてしまった時、
③ヨコシマな気持ちがあってその行為をしたとき、
①、②、③で罪の深さは異なるだろう。
それが量刑である。
し昨今の報道の馬鹿騒ぎは刑法上の量刑を遥かに上回る、社会的制裁を綿密な判断をすることなど全く無しに、気分で加害者に貸すことができる世の中になってしまったとの認識は筆者だけの感覚であろうか?
この「過ち」と「罰」のバランスが極めておかしなことになっていて、さらにその量刑がほとんど「気分」に支配されて決定されるとしたら、それは「いじめ」とどこが違うのか?
これらの行動をよりエスカレートさせるのが「正しさ」のお墨付きであったらその「正しさ」はなんのためにあるのだろう?
合理性の無い量刑により過度に厳しい「罰」が執行され、それをみてストレスを発散させる社会はまさに(魔女狩りの時代)・「暗黒時代」そのものと変わらないのではないのか?
そうではない、社会に必要なものはなにか?
おそらく、「赦す」こと、不完全であってもそれを「在るが儘に受け入れること」といった、人間のとても大事な感情に従って行動することなのではないか?
これが、極端に不足しているとしみじみ思うところだ。
奇しくも「ホリエモン」が、此の話の口火を切ったという事と、「失敗を許さない日本社会」が
チャレンジングなベンチャー育成の疎外となり、それが何十年も続く経済の低迷の原因と、
それなりに大きな関係があると主張するのは、こじつけに過ぎるだろうか?
こんなことを踏まえ、
次回の仏教勉強会のテーマを
『 「正しさ」と「あるがまま」を再考する 』
にしようかと考えています。
【初参加歓迎】 今年もやります 第5回仏教勉強会 1月16日(日)
mixi ⇒ http://ow.ly/3ynTf
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