風の匂ひ---まつよし本当にお坊さんになりたいのか? 修行中 -14ページ目

「禅」をかたる詐欺

あるサイトでインターネットによる情報配信に対する批評記事を拝見しました。

>> あまりにも間違った情報がインターネットによって広がっていることに危惧を感じています。
>> そういう軽薄な風潮は禅宗のみならず日本文化のためにもならないと思い、苦言を呈する次第です


恐らくこのブログに於ける試みが、誤った情報発信である可能性が非常に高いということを、まず皆様にお知らせし、お詫びいたします

世にブランドはいくつもありますが、その中で特にとり使いを注意しなければならない、「禅」という言葉を私が余りにも安易に使い、また、実際にお寺さんなどにいったりしていることを書くなど、本来の「禅宗」に悪影響を与えている。
それが事実であれば、直に何か対策を考えなくてはなりません。

正式な「禅」の作法に以下のようなものがあると悟してくださった方がいらっしゃいます。

>> 私が禅を始めたころ、典座(食事係-禅寺では重要な役職)から「印可を受けるまでは、
>> 禅について語ってはならない。」と厳しくくぎを刺されました。
>> 印可というのは剣術における免許皆伝のようなもので、これを受ければ一応禅マスターというわけです。
>> 語るな、というのは秘密にせよ、という意味ではなく、間違ったメッセージを世間に流布してはいけない、という意味だと思います。
>> 禅は不立文字、言葉にできないことを伝えなくてはならないわけですから、何を言っても思わせぶりな口調になってしまいます。
>> 未熟なものが、それをまねして語ると、グロテスクで滑稽なものになります。
>> いわゆる「禅臭い」というやつです。


さて、情報を受けとってしまった以上何かのアクションを考じなければなりません。

案その1

本ブログを直ちに閉鎖し、「印可を受ける」まで何もしない。


第2案

このブログの問題点は、いわゆる「禅」と言う名前のブランドを無断で、さらに勝手解釈で利用し、その結果「悟り詐欺」なる悪徳商売となっていると仮定する。

であれば、この犯罪的状況を回避し 読者を誤解に貶めことのなきよう、本ブログからいっさいの「禅」という文字を削除し、実際にお寺にいったことなどを書くことをやめる。

言い換えれば、
明らかに独りよがりのおバカが何も分からずにオリジナル思想として勝手に毒をはいているのですよ!
という事をことさら強調していく???

これで良いのかなぁ?

さてさて どうしたものでしょう? いましばらく結論を出すまでに時間をいただけたら幸いです。



一方で「禅・・・のようなもの」を日常の生き方に応用しようという動きが最近の社会にあることは確かなようです。
まつよしが禅について再び考えなおそうと思ったきっかけになったのも、そういった世の中の安易な風潮があってこそのことであります。

そしてこのブログは、外側からその禅らしきものに関わっていくうちに自分の中で「禅」という物はひょっとしたら、こんなものであるのかもしれないと、そういったあくまで個人的な心の動きを綴っていこうとの思いで始めたわけす。
つまり最初からこのブログは「似非禅」であり「ぜんぜん詐欺」であるわけですね。
その事自体どうなのだろうか?
方法論を正しいものとすればつづけても良いものだろうか?


であれば、まず、禅の立場ではこのように考えますという断定的表現方法は現に慎むべきであるということなのでしょうね。
素直にこれは反省しないといけません。 以後よく気をつけます。



でも最後に毒を食らわば皿まで!ということで、

   私はもう何十年も、ここに通い修行をしてきたが、未だ禅の何たるかは分からない。
   あたまで考えちゃイカン。腹で考えろ。わかった気になるな。

   この分からないから崇高なものなんだよ、
   お前にはわからんだろ。わからんよな? だから「禅問答なんだ」

   かあぁっ!

そんな感じのことをいわんばかりの在家の先輩のこの類の表現方法に対して、(※実際はもう若くもない)まつよしが、お寺にいって、実際にもっとも禅宗くさいなぁと思ってしまったことを白状しちゃいます。

 いったい何十年も何しに来てたんだ? 
 自分の求道心の低さをそこでひけらかしてどうするつもり何だ?

などといった、邪念が浮かんできてはそれを振り払う事に苦心しています。

最後に、今日的に心の問題を扱う際、留意すべきポイントは以下のようなところにもあるかと思います。

今日は情報を採ることの利便性が革命的に高まりました。
またなにかを教わることをサービスとして享受することが当たり前となった受験生と、それを経て学校を卒業したなれの果てが、道を外れてそこかしこで彷徨続けています。

教わる側の謙虚さの欠乏は現代の日本において大きな問題である事は確かです。
しかし、伝える側が改善を考えなくても良いか?といえばそれもありえないと思うところです。

地獄は現世にある

白隠禅師は、地獄に落ちたくない一心で修行に励まれたといわれています。

死後、永遠に続く地獄・・・ 
お寺なんかに地獄絵図とか幽霊の水墨画などありますね。

でも、どうやらお釈迦様は余り死後の地獄やその反対の極楽(キリスト教的に言うところの天国)などに言及しなかったようなのです。

本当にあるのかどうか検証しようもない話を、神秘主義的に延々と議論しても、人々がそれに納得するかどうかは甚だ疑問です。
 それは日本の高度経済成長期におこった科学技術信仰の果てに、検証不能な死後の世界など、認知できない = あるはずがない(※これは純粋に論理学的に行ってもおかしな結論付けなのですが)、といった安易な結論づけによってスルーされてしまう可能性もはらんでいますしね。


【 苦しいと感じているひとつの例 】

人は恋人に振られちゃったとか、恋人を信じることができなくなっちゃったなど、悲しみに沈んでいるときに、いまここの目の前にいない恋人は、いったい今何をしているのだろう?何を思っているのだろう?なんと行った類の妄想にかられちゃったりします。

そんな時は、たいてい悪い方へ悪い方へとその妄想を展開し、頭の中で想像ばかりがループしていく。
あんなことやこんなこと、普段であればそんな事が起きている確率がほとんど認められないようなことまで、わざわざ自分で引っ張り出してきて思い悩んでいたりもします。
そうなると、かろうじてそのループに気づいたとしても、そこから容易に抜け出せなくなっていたりもします。


そんなことを一人暮らしの自分の部屋でやっているとしましょう。
その同じ場所で、出会ったばかりの二人が楽しくお茶をのんで楽しい話をしたこともあったのかもしれない。また、明日会えることを楽しみに、普段書かない日記なんか機嫌よく書いちゃってたかもしれません。
その全く同じ場所で、今の私は抜け出せないループにいまもがき苦しんでいるとしたら・・・

地獄の景色も天国の景色も 全く同じであるのかもしれません。
同じ自分の部屋にいるのであっても、そこが地獄になったり天国になったり、それは全て自分の心が作り出す世界。


ゆえに、地獄は生きている「この世の中に存在する」と考えることができます。


しかし「存在する」ってのも実は怪しい、、、かなり怪しい。
それが、自分の妄想を取り除いた後に残る、心の中にだけ存在するその苦しみとはどんなものであるのか?



過去多くの禅僧が、悩める人に向かって良いました。

あなたのその苦しみや悩みを取り除いてあげるから、その「苦しみ」とやらを、ココに出してみなさい。


「苦しみ」や「悲しみ」の多くは現世にあるのだけれど、どこにも「無い」のです。



合掌

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経済の自由主義と禅仏教について

2008年の9月に起きたリーマンショックは世界経済を大混乱に陥れました。
 株式市場の大幅下落は世界経済を大きく後退させ、多くの雇用が失われた一方、その火元になったアメリカの金融業界を救済するためにアメリカでは多額の税金が使われたこともあり、市場経済に対する批判はかつてないほど大きくなってきています。
 そしてその反省から、経済全般を市場に任せていては強欲の一部プレーヤーのために社会は滅茶苦茶にされてしまう。故に政府は経済活動をもっと規制すべきだという声が大きく高まっています。
果たして、これからの社会は、自由資本主義を捨てさり、いわゆる共産主義や社会主義といった世の中に向かっていくのでしょうか?

 この流れの行方(今後どのようになっていくのか)については、個人的には現時点では予測不能でどうなるのかわからないとしか言えません。 
しかし分かる範囲で私見を述べさせていただくと、人間が人為的に経済を計画し規制を強化するといった政府の有り様を進めた場合、経済はそうしなかった場合に比較して、経済の仕組み全体が縮少の方向にむかい、さらに悪化する危険をはらんでいると思っています。


さて、このお正月に、池田信夫氏の「ハイエク ‐‐‐ 知識社会の自由主義経済」を読みました。
この、ハイエク、政府による市場介入をなるべく小さくし「自由な市場経済」に任せるべきという主張を説くいています。


 なぜ、市場経済が大きく失敗したあと、なお「自由主義」にこだわり、まつよしはハイエクを読んだのか?
それに対してこれから、ほんの少しだけお話いたします。

 理由としては消極的で弱いと思われるかもしれませんが、いままでに社会主義体制が行った社会実験がことごとく失敗し、成功した事など無かったからです。
 言い換えると、この経済全体を人間の理性・知性で政府による集中的なコントロールすることなどできるはずがないという確信があるからです。

ただこう言うと、策がないからやらなくてもいいのか? といった疑問も当然に生じると思われます。

また、この手の発想では人類の知性に対する敗北宣言のようにも聞こえます。
さらにいえば、何故放置プレーで果たしていいのか?  何もしないことが、うまく回る合理的根拠はなんだ? という不安が生じてくることは想像に難くないところです。


ここで発想を大きくかえてみます。
市場の自由、個人の経済活動に任せることが良いとしてそれを採用すること自体が人類の大きな知恵の一つであるとも言えます。
また、人間の営みに於いて制限を撤廃し原則自由とする政策をとると言うことは、裏返って考えてみれば、人間自身に対して非常に深い信頼がなければ出きない政策なのです。
この経済運営に於ける自由主義は、大前提として性善説をとっていなければ出てこない思想でもあるのです。

視点を変えて禅からの視点をここで加えてみます。

禅の修行でもっとも重要なポイントは禅の実体験であります。
自由主義経済の言葉を借りて 「只管打坐」をいいかえると、頭を空っぽにして「無」に心を委ねよ。ということが求められているようです。

 ここでも、人間が人工的に作り上げたところの思索に縛られてはいけないのだと言う構造が見て取れます。
そして、それを許している大きな論理的背景は人間ひとりひとりの生まれた時の性質を絶対的に信頼しているが故・・・只管座れば良い との結論付けを可能たらしめるわけです。

人間の思索の限界について、まず第一にソクラテスの時代から「無知の知」は認められています。
一人の人間が一生の間に知り得ることは当たり前のように限られています(有限である)し、その限られた情報を組み立てていく思索の体形も自ずと大きな限界を有しています。
その思索の体形を具現化しているものが「言葉」であるわけです。

※ここでひとつだけ注意、何もしないで経済を人間に任せるということは、人間の本能のままに生きてよいと言うこととでは断じて有りません。 個々のある程度までの合理的な判断は必要ですが、完璧な判断でなくても良いのです。

思索を体系的に行う頭(前頭葉)で論理的に考えずに、なぜ、世の中や自分の心が、そのままで本当にうまく行くのでしょうか?

 その答えは 頭で考えずに 体で考えろ! という処に集約されていくのだろうと、この段階では申し上げておきます。

頭か?体か?などと言い、「体による判断」が素晴らしいなどというと余りにも非科学的な印象を持ってしまいがちですが、昨今の脳の神経系統の研究の進行で、末梢の作用の重要さが注目されています。

そのほか様々な学術の分野で ピラミッド型をした中央集権的な組織が変化に対応できずにうまく機能しなくなって、個々の現場現場の判断に委ねていったほうが本来的にうまく回っていく構造が各所から報告されるようになってきています。
 そして従来のままでは機能しづらくなってきたピラミッド構造とは、組織でいえは官僚制度であり、思索においは形而上学的学問体系ということになってくるわけです。

 お釈迦様が見つけたとされる世界の有り様の第一は、世界は全知全能の絶対者によって形成されたものでは決してないということらしいのです。 
しかし同時に、世界はあるがままに有り、衆生すなわち仏である。というものの考え方。
 前述した形而上学的、体系的論理展開を避けて通る技法としての禅の有り様についても、この事と関連づけながら、今年一年、考えていきたいと思ってみたところです。

皆様、今年も何卒宜しくお願い申し上げます。

合掌

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