風の匂ひ---まつよし本当にお坊さんになりたいのか? 修行中 -13ページ目

至道無難唯嫌揀択

至道無難唯嫌揀択 

【読み方】し(ぃ)どうぶなん、ただけんじゃくをきらう(ゆいけんけんじゃく)

昨日(1月14日)、東京禅センター主催の”禅を読もう”講座に出席してきました。
この講座に参加したのは三回目になるのですが、基本的には「一日一禅」(秋月龍珉著)をテキストに用いて臨済禅で用いられる公案とはどんなものなのか?実際に読んでみましょうという勉強会です。

最初にお断りしをしておきますが、この会は、講師の方こそ、お坊さまでいらっしゃいますが、参加されている方は原則在家の方々(※坐禅の経験の長い方も含め)つまり一般人であります。
 そして、「実際の公案」とは出家されたお坊さん達にとって、その修行の過程で行われるギリギリの真剣勝負、一対一の師弟対決によってのみ成り立つものであるようなのですが、この会は、大勢の人が集まって本を読んで、その答えをみんなでまとめ上げて、とりあえずみんなが納得するような”ひとつの正解”を導きだそうとか、そういう集まりでは決してないということを強調していおきたいと思います。
 禅問答といった非日常的な論理展開の周縁を、私たち一般人が外側から見て、これってどんなものなんだろうと、日常の常識を引き摺りながら感想をそれぞれがまず考え、そしてそれを互いに、他の方々がどのように感じたかのを聞いて、またその思いについて今一度考え直してみる。
そういった場所であるという解釈でまつよしは参加させていただいております。

そして以下素人のまつよしが勝手に思った感想をかなり勝手に述べてみることにいたします。。


【普通に考えたところの意味】


至道無難 

道に至るのは難しくは無い。 ここでは禅の修行場の話ですから、道に至るとは「悟りへの(悟りを開く)道」で良いのかと思います。
但し、一回パスすれば一生モノであるかのような入学試験みたいにその後はどうでも良いという物でもないらしいのですね。
※ そして、なんだか禅問答ってわけわからないし、そういう理屈っぽい事ばかりいってるしぃ。
※ 仏教のなかでも特に只管坐るとかいう「禅」を通じて悟る(なにか新発見をする)って超難しそう。
ってな一般の認識(ほんとかな?)に反して、そんなことはないよということで「無難」ということらしいですね。

しかしそれは 唯(ただ ・・・ もしこれ以降のことをすれば)という条件つき!

唯嫌揀択(ただ揀択をきらう) という条件にかなえば・・・ 
として至道無難が成立する条件が提示されています。

「揀」という漢字も「択」という漢字もいづれも「選ぶ」という意味があり、後半全体の四文字の意味は 選択や選り好みを嫌い(そうしないでい)さえすれば・・・ といった条件が満たされればとの意味になり、その結果、道に至るのは難しくないとの事。

国語辞典の解説のような書きかたをすると、好き嫌いみたいなことを言わず選り好みをしなければ、「悟りの境地」つまり落ち着いた安心した状態、成就した地点に難しい事なくいけるんですよということらしいのですね。

「揀択」のまつよし的考察 その1

この「揀択」(選り好みをする行為)をする前提として、あるひとつの価値判断基準みたいなものがないと決まらないわけです。

また、こうしたい、ああしたい、こうすべきだ、なんだかんだ などと言い出したり、自分で思い始めたりしたときには、実際には今そうなっていない状況があって、それではイカンという状況がまずなければ、自分の心はそう思わない訳ですね。

その時にイカンと思ったり、もっと良くしたいと思う(これ自分のエゴを優先させて自己の快楽をもっと大きくしようということも含みます)ときには、それを好ましい状態ではないと判断した基準がまず存在するということなのですから、心がこの「揀択」をしはじめた時点で何かの判断基準に囚われているという心的状況に既にあるのだろうと思うのです。

ところで、この公案、これ自体にパラドックスを持っています。
「揀択」を嫌うということを言い出したとたん、「揀択」は好ましくないのでそうではない世界になるべきだ、という再びある価値の視点から線引きをしていて「好きだ」の「嫌いだ」のと差別がはじまっているわけなのですね。

そんな矛盾があるとはいえ、人間は本能的に単純な二元論には賛成してはいけないのではないかと、元々感じている人も実際に少なくないだろうとは思います。
 世の中に「絶対の正義」みたいのものが有り、その「絶対の正義」の精神に従って日々の行動を行えば全く問題のない社会生活が送れるかといえば全くそんなことはないことは皆さん良くご存知のことだとおもいます。

 元々白黒はっきりした問題が世の中にあったとしても、その類の問題は、間違っているという方が間違いを正せばすぐに解決してしまって問題が長引くことはないのです。

結局人と人が仲違いする(これ、自分の現実と自分の理想が仲違いする場合を含みます)状況の多くは、本人にとっての正義とそれに抵触してしまう他の人の正義とぶつかる場合こそが問題になりこじれていくのです。

再び「揀択」の考察 (その2)

なぜ、違う正義がぶつかり合う事になっているかといえば、① その問題を正しいと観るときのポイント(切り口)が人によって様々である(確定することがまず出来ない)からであり・・・、

次にその対象を二つに切り分ける作業をする時にまずしなければならない作業を正確に考察してみるとに

②どこからどこからどこまでの範囲を切りわけるべきなのかの外枠(フレーム)をもまず確定しないと正確に正義の範囲が確定出来ないわけですが、

②’(ループ)その範囲を確定する作業というのも、よくよく考えればその内側と外側を切り分ける作業をすることなのですから、ふたたびそれを分ける一個上の外枠(フレーム)を確定しなければ正確に範囲を確定することなどできなくなるのです。

つまりは、どこまでいってもその外側の一番外の枠の部分が確定出来ないという状態が、日常我々がやり過ごしている範疇の、言葉や記号をつかっての論理の世界のフレームの構造なのであります。

これは実に「禅」の世界で「不立文字」の解説をされるときに良くいわれる「言葉によるコミュニケーションは不完全なもので自ずと限界がある」ということに繋がるのみたいなのですね。

くどいですが、純粋に論理的にある対立を解決しようとするとはどういう事?

ここで議論がフェアーに成立するには、まず、論理が及ぶ範囲の外側(フレーム)を完璧に確定した上で、一定の論理に従った共通の概念の切り方が共有できているという前提が確立さた範囲、そこが限定されているということなのですが、そこでしか成立しえないということなのです。
そして、絶対的に良い悪いという(合否)判定はその閉じた系の中でのみでしか確定出来ないんだよということなのでしょう。 
以下具体例をあげてみますね。

「数学の 1+1=2  1 = 1」 の世界

これはある状態の一部だけを取り出した上で、数字という抽象概念に置き換えてその意味の範囲を限定した上で扱っているからこそきっちリとした答えを出せているのケースです。

現実の社会で、おやつで食べようと思っていた柿が二つあったとしても、全く同じ柿が二つあることなどありません。
より美味そうな柿と、どちらかと言えばまずそうな柿に分かれてしまって、それぞれが別個に存在し、数の面からみた時に2個の柿が存在しているというケースが普通なのです。

ここで1と1は同じだからひとつづつ分ければ公平で問題ないでしょとはならないのが世の常であります。
 言うまでもなく、このとき納得しないケースといえば、二つの柿の品質が著しく異なり、いかにもマズそうな柿をどっちがとるのかが問題になっているときなのです。
このときに算数という理屈では解決出来ないのです。

言葉で考える、論理的な思考はこのような前提条件をまず決定しないところではうまく働きません。

「揀択」の考察 (その3)

そして「揀択」をしない、選り好みをしないで何が解決されるかといえば、主体的にまずい柿を選ぶなさい。
そうすれば、もめごとの生じないから、人生の目的である「悟り」に近づけるでしょ? なんて安易な解決をしろということでは多分無いのでしょうね。

だって、なんのことはない、うまそうな柿とマズそうな柿を包丁で斬って 半分ずつにして、ふたりで食べちゃえばおそらく不満も相当減るだろうということもできるからなんですね。

これは、最初の数学の 1 +1 = 2とした論理の世界の限定した範囲をいったん飛び越えちゃっている訳で、そこにこだわりさえしなければ案外簡単な方法は見つかるのです。

「言葉の世界の成り立ち」のまつよし的考察

論理的思考のベースになるのが「言葉」(単語)なんですね。
そして、新しい言葉が発生するときとは、新しいものの見方が発見されたときであります。
新しいものの見方の発見とは新しい切り口の発見と同意です。

そして、科学というものは、基本的に物事をより細かく切り刻んで見ていこうという作業を延々とやっている部分が非常に多いのです。 (そうでなく全体の考え方をまとめるという作業もあります)

そんな環境の中で一般的には、より「理性的な人」というのはなるべく沢山の言葉を知っている人がそうでありそうな気がします。
またその人は、そのために日夜勉強に励んで、努力した人なんてイメージなのですね。

しかしながら、普段の諸問題とか対立が発生する時というのは前で見てきたように、議論している人どおしの、切リ取る視点がずれていたり、切り取る対象の外側がずれていたりするが故に起きていることが多いのだと思うのです。

それは「絶対的正義」と「絶対的悪」のぶつかりあいなどでは無く、正義の反対とそれとは違う別の正義が衝突してしまい、そこで矛盾していると見えてしまう場合が圧倒的に多いのです。

そうならないために議論の前提を相当に細かく規定しようとすると必要な準備が非常に膨大となり、その情報処理の過程でオーバーフローになり、何一つ決められない状態に陥る可能性がどんどん高まってくるのでしょう。
ここに至り論理的説明(特に言葉ばかりを用いた説明の)不完全さと危うさに到達したのですが、さてその上でどうしろというのでしょうか?

それも含めて「揀択」を疑え!「揀択」した結果できてたものを信じるな!
という、とりあえず「揀択」を否定する部分まではなんとなく完了しました。

さて、ではその結果必ず 「至道無難」になぜなるのか???
ほんとうはここから先が「禅」的な問題(一大事)となりそうな予感がしています。


合掌

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作法

禅に関わって生活をするようになって、日常のたわいない事柄に関しても「驚き」をもって再発見するような場面が多くなったように思います。
 そして今日、何を「驚いた」かというと、いままさにこのブログを書こうと思いタイトルを書き入れたとたん、「法(のり)を作る」のが作法って、この言葉まさに”そのまんまじゃん”と驚いたのです。

しかし、そのおかげで書く内容が大きく変わったかといえば、そうではなく、むしろ書こうと思っていた内容に対する説得力とひとつのカチッとしたフレームを作っていただいた形になり、それについてもさらに驚いているところです。


ところで、お釈迦さまの見つけられた「法」とは、現代社会における「文章によって制定された決まりごと」の意味を持つ「法律」のことではなく物理法則といったときの「法」に近い概念をさすようですね。
 重力といえば、質量のあるもの全てが引き付合い、地球上においては、地球の上にあるものは空気抵抗その他ほか抗する力がなければ下にりんごが落ちていくように、万有引力の法則にすべてのものが支配されているといった時の、その「法」のようなものなのですね。
 地球上という範囲を飛び出して、地球を回る月、太陽を回る地球、さらに太陽系や銀河系、小さい方向にいけば、原子や素粒子の世界、(※量子力学のところまで考えるにあたっては、若干の修正が必要になってくるようなこともあるみたいなのですが)、そういった物理法則にしたがっている(私たちを含めた)私たちがいまここにいる世界に、現在進行形で働いている「ひとつの原理」が「法」であるのですね。

であるとしたら、その「法」に逆らわない贖わない(あがなわない)で生きていく。
また、ものごとを考えていく必要にかられた時にも、そういった方針(自然の法則に沿って)で生きていきましょうという発想は、きわめて合目的的(合理的)であり、科学的(科学を追求する時に適した)な態度であるといえましょう。

さて、作法は そのような「法」を作ると書くことに気づいたわけですが、私たちは神様ではないのですから、その「物理法則」みたいなものそのものを作り出すなんて事はできっこありません。
そういうことではありませんよと、まずお断りしておきます。

そしてここからが、本日体験した上で、なんとなくわかったような気になった「作法」の意図するところと「作法に従った行為をする」(正しい・美しい所作振舞いを行う)そのつながりについてのお話になっていきます。
毎度の事ながら前置き概要に長くてスミマセン。

では忘れないうちに結論を書いてしまいます。

正しい(合理的で美しい)所作振舞いを皆で共通の法則の下、実行することによって、塵によっておおい隠された日常に、宇宙の法則のようなものが、そのままがストレートに現れてくる。
いいかえれば「法」がすなおに働いている「本来の世界」(法が最もシンプルな形で働いていて調和の取れている世界)を回復していく作業や、その状態を称しているのが「作法」なのかもしれない。 そう思ったのです。


宗教の儀式というものは、それが宗教の儀式であるそれ以上の意味を殆持ちません。
つまり、乱暴な言い方をすればやらなくても良い(生物学的生存そのものには関係のない)儀式が宗教儀式であるのだと思います。

社会に於いて変な奴と思われないために、宗教儀式に参加する。
そんな場合も多いのですが、それはともかくとして、宗教儀式に参加するときには、この「お作法」が大事な役割を果していますよね。
ここで宗教儀式というと、仏教ではその一般のイメージの中心は、お葬式など、先祖を敬うことを表明する場が殆なのでしょう。(※実はお葬式も参加者お一人お一人の心の問題がとても大切なんですけれど)

けれども「お作法」とはそういった儀式に参加する我々自身の為にあるのかしれません。
だって、儀式そのものはそれを行ったからといってその後になんの直接的影響も与えないのですから・・・

特に坐禅会などでは、確かにお経を読み、お釈迦様を始めとしたお悟りを開かれた諸先輩方である歴代の禅僧の方々を賞賛するというシーンは有りますが、99%が、他でもない参加した自分自身のためにやっているのであります。

そこで、何故一定の作法が場合によっては口やかましく言われるのかと言えば、まさにお葬式でも坐禅会でもどちらでも良いのですが、その空間に「法」がチキンと働いている世界を一時的であれ回復してやって、その上で精進する方が明らかに効率が良いからそうしているのだろうと思ったわけです。


いま効率が良いと書きましたが、これでは意図されている中心から外れているのかもしれません。

作法にのっとった振る舞い自体が「法」そのものと自身を重ね合わせる非常に良い方法である。もっと突っ込んで言い切ってしまえば、作法という行為を通じ、自らが法そのものと不可分な「法」そのものになっていく事が正しい「作法」なのかもしれないなぁとそう思ったのです。

 まつよし自身は「道」とつくものは高校生の時に「柔道」をやった位の経験しか有りませんので、「茶道」や「華道」の世界の作法がいかなることなのかちっとも分かっておりません。
ただ聞いた話によれば、「道」とつく日本の文化のある一(位置)場面は「禅」の世界から波及していったとのことでありますから、そこでも口やかましくいわれる「作法」って同じようなものではないのだろうかかと思った次第なのです。

そしてその「法」が一定以上に支配されて、統一感を生じている空間に身をおくことは、その事自体だけをもってしても現実的に気持ちが良くなるといった状況も作り出してくれていると感じたのです。


この三連休、千葉の鹿野山にて二日間と、埼玉県新座にある平林寺さんの施設である「睡足軒」にて開かれた一日接心会に参加しておりました。

その最後にご指導いただいた睡足軒さんでは、松竹和尚様から、非常に丁寧にの「お作法」をゆっくりと教えていただくことができました。

 そのご指導のされ方とは、「このようにしてください」とか「このように振舞わなければいけません」といったものでは一切なく、このように振舞えば、こにような心持ちになれますよーといった、ご自身の貴重な経験から得られたアドバイスを惜しげも無く私たちに与えられて、私たちがそれを頂戴していくといったものでした。

そしてそのお陰で参加者がみんなでゆったりと、且つしっかりとした規律を持って座禅会の空間を作っていく、そんな過程が生まれていく、そのような雰囲気の現場を最終日にまた味わうことができたのです。


 基本的にお釈迦様のお教え、その本質は文字や言葉では表せない。
そんなことを言いつつも、それを言葉で表そうとしていて、その矛盾に縛られ、このところ右往左往していた気持ちが、今日の一日接心会でなんとなくすっきりと解けたような気持ちになりました。

そしてその「作法」というものの意味になんとなく気がついたのは、素晴らしい解説をしてくださった松竹和尚様のその解説によってでもあるのですが、それ以前の和尚ご自身の美しい所作振舞いそのものが、私たちに大きななにかをお教えいただいたのだと思います。
一つ一つの振る舞いを丁寧にきちんと行うそのこと。
そしてそのものの美しさと味わい。

改めて「禅」は実践であると気がついた一日でありました。


松竹和尚はじめ ここ数日ご一緒に接心会に参加いただいた皆様に感謝し

合掌


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風に吹かれて

まずはひとつ前のお見苦しい記事につきましてお詫び申し上げます。
削除した方が良いのかもしれませんが、自分の未熟さを外に晒し自戒の一助にしたいと思います。

以下本文


年始の特別行事があったので、ほんの一週間しか経っていない中、再び山に入りました。
1月のこの時期の気候は私が最初にこの山を訪れた11月に比べぐっと寒くなりました。
とはいっても、温暖な房総半島にあるこの地の寒さなど、東北の方々のご苦労に比べたら全く大したものでもないのでしょうね。

逆に、この時期の、特に朝の冷たい空気の中で 「坐る」、「作務をする」ことは、よりクリアな気持ちで緊張することができるのです。
気持ちも感覚もより鋭く保つ事ができるように思えます。

 坐禅をして無念無想となる。

容易なことでは有りません。
普段の生活でお気に入りの作業に熱中し自然と夢中になっていて、雑念が湧いてこない状態になることも有りますが、「さて坐るぞ!」といって何もしないで只管坐るという行為は、へたをすると全く正反対に雑念の嵐に巻き込まれ、それに圧殺されてしまう恐れもあるのかもしれません。

そんな時に、遠くのほうで小さな音がコトリとしたり、優しい風が吹き、それをかんじることで、ふとまた吾に返る事が出来たりします。
自然の中で坐ると、そういった機会により多く恵まれるようです。


オフコースの小田和正さんは、とても美しい声で、美しい歌を歌われます。
その彼自身が歌詞へのこだわりをきかれた時に、「風」について触れておられました。

なぜ「風」であるのかよく分からないそうなのです。
でも氏の作る曲には「風」がほんとうによく出てきます。


1月の太平洋側は西高東低の気圧配置によって、良く晴れる日が多く、また空気が最も澄むのもこの季節です。
ピンとした張りつめた空気の中で、日の出、日の入りの景色は本当に美しく、その様は年越し坐禅会のところでも書かせていただきました。

その美しさの中で、ゆく雲の流れと光のコントラストもまた格別です。

禅堂の脇から眺めることにできる夕日が、実は海に沈んでいくことに今回の参禅で気がつきました。

水面に映る陽の光も言葉に出来ないほど美しい。

その水面まで、かなりの距離があるのだろうけれども、かすかに揺らめいているのがわかります。


仏教に於いて 「諸行無常」はとても重要なキーワードです。

変わらないものは何も無い
全ては流転し変化していく。

「無常」という言葉は多くの場合ネガティブに使われることが多いのですが、そればかりではけっして無くむしろそれが始まりであったりもするようです。

お釈迦さまは万物が「無常」なるが故に、私たちが絶対に安穏できるのであるとおっしゃっておられるようなのです。

酷く単純なひとつの例を申し上げるとすると、流れ移ろうからこそ、新しい命に触れる事ができ、新鮮な気持ちに立ち返ることができるなどということもあるのではないでしょうか。

 ゆく川の流れは絶えずしてまた元の水にあらず。


普段では感じることができない空気ですが、その空気の流れであれば「風」であります。

暴流となって、人々から様々な財産(すなわち元々持っている大切な宝)を壊し奪い取るのも、そんな「波」や「風」であるのですが、穏やかな水面を静かにゆっくりと新しい彼岸に向かって進んでいく小さな、しかし美しい船があったとして、その後押しをしてゆくのもまた同じ「風」であるのかもしれません。

その彼岸を求めて旅立とうと、お釈迦様の教えに導かれて集った仲間たち。
お互いに互いが それぞれの良き「風」になれればと、ふと思いました。


いま静かにゆっくりと、ただ大きな決意を持って旅立とうとしている船の、ほんの少しの手助けができる「風」となりたい。

無想は無相であるところの、姿形(すがたかたち)のない「風」となって世の動きがどんなに変化していっても、その中で自由自在であり続け、滞ることのない「風」となりたい。

また自らも坐してその風の愛撫を楽しんだのち、自然と私は不二一如なものであるという境地に至り、風が自分の中を通り抜けていく・・・
そういった坐禅体験ができるよう精進していきたいと思ったところであります。


合掌

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