五戒
先日の法話会で河野太通禅師は、仏教の五戒についても触れられました。
その五戒とは
○不偸盗戒 ふちゅうとうかい (盗まない)
○不殺生戒 ふせっしょうかい (殺さない)
○不邪淫戒 ふじゃいんかい (よこしまな性関係を結ばない)
○不妄語戒 ふもうごかい (うそをつかない)
○不飲酒戒 ふいんしゅかい (お酒をのまない)
坐禅をしてもなかなか「無」にはなれないと皆さんよく仰います。
しかし、ここで視点をかえてみてください。
生まれてから死んでいくまでに、無ではないという状態いいかえると、「人が何かを持っている(何かを所有している)という」状態などがそもそもありうるのかどうか?
ひとつ前のトピックで 「仏心は不生にて」の解説で 自性は仏性と同じであると書きましたが、さてその自性さえも本当に自分の物であると言い切れるのでしょうか?
河野老師によれば、
あらゆるもの(※そこには、自分の身体心でさえも含まれる)にたいして私たちはそれがあたかも「自分のもの」であると思いがちです。
しかし、そんな事実などはじめから無いのです。
自分の周りにあるあらゆる全てのものは本来、一時的にお借りしている物で、いつか必ずそれらすべてお返ししなければならないものであるのです。
自分のものでない自分の身体は お借りしたものであるが故、
自分の好きなようになるはずも無い。
また、ある期限が来たら、誰もが確実にお返ししなければならない。
それが自分の身体であり精神でもある。
つまりは所有しているとおもっているその事自体、ただの勘違いである。
この「自分の所有物など、実際には何もない」という視点にたち、前出の「仏教の五戒」を見てみますと、色々な「もの」を、あたかも自分のものと錯覚し取り違える行為を書き出し、それを禁止しているということがみえてきます。
○ 盗むとは・・・
一般に、「他の人の持ち物を、正当な手続きを経ずに、自己の物にしてしまうということ」を、現代の刑法上の窃盗ともうします。
しかし、仏教でいうところの「盗み」の対象が、誰かの所有物でなければならない訳ではありません。
○ 殺すとは・・・
盗むということをさらに拡大して考えますと、その存在そのものが持つ本質を、自分の都合のよいものに作り変えようと、そのものの本来の働きを停止させ、奪ってしまう行為も、その対象物を「殺す」ということにほかならないと考えよといわれるのです。
そうであるとしたら、その対象はなにも生物である必要は、ありません。
物を粗末に扱い、必要で無くなったものを、何も考えずにぽんと捨ててしまうことも、そのものを「殺す」ということだと、老師は仰られたのです。
そしてさらに、あるものが「自分のもの」であるとの主張の背景には、そのものに対する固執とか執着が必ず存在するということにも気づかねばなりません。
○ 邪淫・・・
その執着の対象が特に異性の他者であったときに 邪淫 を貪る事になるのです。
また、人に対する執着でさらに厄介なのが、自分の子供へのそれであります。
自分の子供であっても文字通りその人格を「自分のもの」と錯覚し執着することも、仏教が禁止する邪淫であり戒められなければならない心の動きであるとされるのです。
○ 妄語、飲酒
嘘をつく事= 妄語 とは、ありのままに存在する事実に、自己の都合の良い意見を付け加えたり、歪曲して解釈をすることであります。
また、もともとクリアな自性をもち、落ち着いている状態の心に、あえて酒の力をつかって、そこから離れ、「何かに酔うという状態」を人為的につくりだす行為が飲酒であるというのです。
結局、これらの五戒とは文字どおり戒めではありますが、その行為をはじめから与えられたタブーだから犯さないといった事ではなく・・・
様々なものを「自分のもの」とこころの中で取扱、それに「固執・執着」することによって苦が生じるわけですから、そうならないための行為規範であると見ることができます。
そもそも、はじめから「無」かった、私の持ち物(所有物)が在ると勘違いすることを、その大元から断ち切れば、そこに固執するが故の苦しみも、そもそも現れようがないという事となります。
ここに至り、
何も持たないとの自覚が、大いなる精神の自由を保証し、
同時に生きることの「苦」から私たちを開放する。
それをめざすということなのでしょうか?
合掌

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その五戒とは
○不偸盗戒 ふちゅうとうかい (盗まない)
○不殺生戒 ふせっしょうかい (殺さない)
○不邪淫戒 ふじゃいんかい (よこしまな性関係を結ばない)
○不妄語戒 ふもうごかい (うそをつかない)
○不飲酒戒 ふいんしゅかい (お酒をのまない)
坐禅をしてもなかなか「無」にはなれないと皆さんよく仰います。
しかし、ここで視点をかえてみてください。
生まれてから死んでいくまでに、無ではないという状態いいかえると、「人が何かを持っている(何かを所有している)という」状態などがそもそもありうるのかどうか?
ひとつ前のトピックで 「仏心は不生にて」の解説で 自性は仏性と同じであると書きましたが、さてその自性さえも本当に自分の物であると言い切れるのでしょうか?
河野老師によれば、
あらゆるもの(※そこには、自分の身体心でさえも含まれる)にたいして私たちはそれがあたかも「自分のもの」であると思いがちです。
しかし、そんな事実などはじめから無いのです。
自分の周りにあるあらゆる全てのものは本来、一時的にお借りしている物で、いつか必ずそれらすべてお返ししなければならないものであるのです。
自分のものでない自分の身体は お借りしたものであるが故、
自分の好きなようになるはずも無い。
また、ある期限が来たら、誰もが確実にお返ししなければならない。
それが自分の身体であり精神でもある。
つまりは所有しているとおもっているその事自体、ただの勘違いである。
この「自分の所有物など、実際には何もない」という視点にたち、前出の「仏教の五戒」を見てみますと、色々な「もの」を、あたかも自分のものと錯覚し取り違える行為を書き出し、それを禁止しているということがみえてきます。
○ 盗むとは・・・
一般に、「他の人の持ち物を、正当な手続きを経ずに、自己の物にしてしまうということ」を、現代の刑法上の窃盗ともうします。
しかし、仏教でいうところの「盗み」の対象が、誰かの所有物でなければならない訳ではありません。
○ 殺すとは・・・
盗むということをさらに拡大して考えますと、その存在そのものが持つ本質を、自分の都合のよいものに作り変えようと、そのものの本来の働きを停止させ、奪ってしまう行為も、その対象物を「殺す」ということにほかならないと考えよといわれるのです。
そうであるとしたら、その対象はなにも生物である必要は、ありません。
物を粗末に扱い、必要で無くなったものを、何も考えずにぽんと捨ててしまうことも、そのものを「殺す」ということだと、老師は仰られたのです。
そしてさらに、あるものが「自分のもの」であるとの主張の背景には、そのものに対する固執とか執着が必ず存在するということにも気づかねばなりません。
○ 邪淫・・・
その執着の対象が特に異性の他者であったときに 邪淫 を貪る事になるのです。
また、人に対する執着でさらに厄介なのが、自分の子供へのそれであります。
自分の子供であっても文字通りその人格を「自分のもの」と錯覚し執着することも、仏教が禁止する邪淫であり戒められなければならない心の動きであるとされるのです。
○ 妄語、飲酒
嘘をつく事= 妄語 とは、ありのままに存在する事実に、自己の都合の良い意見を付け加えたり、歪曲して解釈をすることであります。
また、もともとクリアな自性をもち、落ち着いている状態の心に、あえて酒の力をつかって、そこから離れ、「何かに酔うという状態」を人為的につくりだす行為が飲酒であるというのです。
結局、これらの五戒とは文字どおり戒めではありますが、その行為をはじめから与えられたタブーだから犯さないといった事ではなく・・・
様々なものを「自分のもの」とこころの中で取扱、それに「固執・執着」することによって苦が生じるわけですから、そうならないための行為規範であると見ることができます。
そもそも、はじめから「無」かった、私の持ち物(所有物)が在ると勘違いすることを、その大元から断ち切れば、そこに固執するが故の苦しみも、そもそも現れようがないという事となります。
ここに至り、
何も持たないとの自覚が、大いなる精神の自由を保証し、
同時に生きることの「苦」から私たちを開放する。
それをめざすということなのでしょうか?
合掌
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仏心(仏性)は不生にして・・・
昨日は東京世田谷にある臨済宗妙心寺派の龍雲寺に花園大学学長等を勤められた、又玄窟河野太通老師の法話会に参加させていただきました。
※ どなたも参加出来る法話会等たくさんありますので興味がおありの方は、こちらのHPを御覧下さい
http://www.myoshin-zen-c.jp/event/event_daituu.htm
昨日の講演は、江戸時代白隠禅師より少し前に「不生禅」を説かれた盤珪禅師の仮名法語をテキストにされた講話のを5回シリーズのうちの4回目でありました。
※ 以下の記述は在家のまつよしの勝手解釈で、河野太通老師のお言葉とは違っていて「あたりまえ」との認識でお願いいたします。
盤珪禅師が説かれる禅のキーワードは前述のように「不生」でありました。
般若心経にも出てくる「不生不滅」、また別の機会に仏教で語られる「不生不死」といった概念の、前半部分が、この「不生」なのですが、なにが「生じず・生まれず」なのかといえば
「仏心(仏性)は不生にして・・・」
という言葉を盤珪禅師は繰り返されます。
ところで、キリスト教的思考の影響を強く受けている現代に暮らす普通の人々にとって、「仏心」や「仏性」という語から来るイメージは、以下のように誤解されている場合が多いのかもしれません。
自分よりもはるかに貴い存在として「人間」と一段違う世界に「仏様」が、
どこかに住まわれて(存在して)いて、そのような完全な存在
(まさにキリスト教に於ける人間を超越した「神」のような存在)=「仏様」であるとの誤解です。
宗教としての仏教の最大の特徴は、(※仏の教えとは書いているものの)
この人間存在や現在今ある宇宙を超越した「唯一の神」が人間や宇宙の外側に
存在するという構造を否定するところから始まりました。
日常の言葉におきかえてみると
キリスト教の「神様」のように、完全な方が「仏様」としてお一人いらして、
私たちを外側から導いているわけではない
ということになりましょうか?
「仏心(仏性)は不生にして・・・」に再び戻ります。
ここで「心」とか「性」という文字が「仏」という文字の後ろについていることが、実は大きなポイントとなるのではないか思われます。
仏教では「自性霊明」という言葉がまたよく使われます。
この「自性」と「仏性」が、実は同じものであり、ぴったりと重なるという事であったとしたら、私たちはそこに何を読み取ることができるのか、ここから深く考えていきたいと思います。
疑い深い現代人が、「自分自身の中に仏の心」があるなどとと突然いわれた時、おそらく反射的に「そんなはずはない」と否定的に考えるのが普通なのではないかと私自身はそう思っています。
課題として答えを保留し問うておきます。
なぜか? それは、文字を使って論理的に説明されていないからなのです。
そして、なぜ説明されないのか?
さて、そんな「仏性」がそれが「不生」であると盤珪禅師はいわれます。
論理的には 「生まれないものは死なない」「生じないものは滅しない」とするほうが一貫しています。
そして、生まれてこないもの=全く存在し無いもの?
そうであれば、私達はそんなものを認知すら出来ないわけで、そのようなものに名前をつけて取り扱う必要さえも現れてこないわけです。
まったく存在しないはずが無いもの、それが実際には「在る」にもかかわらず「生まれず」と説かれているとは、どう解釈したらいいのでしょうか?
引力を例として考えてみます。
宇宙の始まり・世界の終わりというものが存在するのかどうかといった極端な例を除けば「引力」はすべてのものに常に働いていると考えられます。
この「万有引力」はどこかで生まれどこかで消滅するような類のものなのでしょうか?
※ 宇宙存在が始まる前のその状態までに思索を及ぼしていったときに、今の宇宙が「生ずる」まえの万有引力以前の力といった命題に関する議論は、ここではとりあえず留保します。
こういった万有引力のように、どこかで生じたわけでもなく、
よってどこかで滅する事のないアプリオリな事実(真実)が
「仏心」であり「自性霊明」な事実であると説く事が
「仏心(仏性)は不生にして・・・」
という事になるわけですが、これを言い切り、言い切るために、自己を探求し尽くす作業こそが、禅の修行という事なのかもしれません。
良寛さんは「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈され子供達と遊ぶことをとても好まれたといわれています。
生まれついた時点では「人の性」は「仏の性」そのものであるのにも関わらず、その後の人間生活によって、このすべての人々が持っている「仏性」を覆い隠し、埋らせてしまう後天的ななにかが蓄積されていくようなのです。
その後天的に積り積もった澱とか垢とか錆のようなものを排除していく作業が大事ということにつながっていくのです。
ここで、お経に何が書かれているかといった机の上での勉強は二の次、仏教の哲学的体系を学ぶことも同じであって、
ただ、只管(ひたすら)坐ることが第一
であると、その「禅体験・禅定に入ること」の重要性を説く「禅宗一般」の経験主義は
人は生まれながらに各々のなかにもともと「仏心」が存在するという前提が必要不可欠な出発点となるのでしょう。
この究極の性善説、私たちはいつの日か受け入れることができるようになるのでしょうか?
修行は続きます。

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※ どなたも参加出来る法話会等たくさんありますので興味がおありの方は、こちらのHPを御覧下さい
http://www.myoshin-zen-c.jp/event/event_daituu.htm
昨日の講演は、江戸時代白隠禅師より少し前に「不生禅」を説かれた盤珪禅師の仮名法語をテキストにされた講話のを5回シリーズのうちの4回目でありました。
※ 以下の記述は在家のまつよしの勝手解釈で、河野太通老師のお言葉とは違っていて「あたりまえ」との認識でお願いいたします。
盤珪禅師が説かれる禅のキーワードは前述のように「不生」でありました。
般若心経にも出てくる「不生不滅」、また別の機会に仏教で語られる「不生不死」といった概念の、前半部分が、この「不生」なのですが、なにが「生じず・生まれず」なのかといえば
「仏心(仏性)は不生にして・・・」
という言葉を盤珪禅師は繰り返されます。
ところで、キリスト教的思考の影響を強く受けている現代に暮らす普通の人々にとって、「仏心」や「仏性」という語から来るイメージは、以下のように誤解されている場合が多いのかもしれません。
自分よりもはるかに貴い存在として「人間」と一段違う世界に「仏様」が、
どこかに住まわれて(存在して)いて、そのような完全な存在
(まさにキリスト教に於ける人間を超越した「神」のような存在)=「仏様」であるとの誤解です。
宗教としての仏教の最大の特徴は、(※仏の教えとは書いているものの)
この人間存在や現在今ある宇宙を超越した「唯一の神」が人間や宇宙の外側に
存在するという構造を否定するところから始まりました。
日常の言葉におきかえてみると
キリスト教の「神様」のように、完全な方が「仏様」としてお一人いらして、
私たちを外側から導いているわけではない
ということになりましょうか?
「仏心(仏性)は不生にして・・・」に再び戻ります。
ここで「心」とか「性」という文字が「仏」という文字の後ろについていることが、実は大きなポイントとなるのではないか思われます。
仏教では「自性霊明」という言葉がまたよく使われます。
この「自性」と「仏性」が、実は同じものであり、ぴったりと重なるという事であったとしたら、私たちはそこに何を読み取ることができるのか、ここから深く考えていきたいと思います。
疑い深い現代人が、「自分自身の中に仏の心」があるなどとと突然いわれた時、おそらく反射的に「そんなはずはない」と否定的に考えるのが普通なのではないかと私自身はそう思っています。
課題として答えを保留し問うておきます。
なぜか? それは、文字を使って論理的に説明されていないからなのです。
そして、なぜ説明されないのか?
さて、そんな「仏性」がそれが「不生」であると盤珪禅師はいわれます。
論理的には 「生まれないものは死なない」「生じないものは滅しない」とするほうが一貫しています。
そして、生まれてこないもの=全く存在し無いもの?
そうであれば、私達はそんなものを認知すら出来ないわけで、そのようなものに名前をつけて取り扱う必要さえも現れてこないわけです。
まったく存在しないはずが無いもの、それが実際には「在る」にもかかわらず「生まれず」と説かれているとは、どう解釈したらいいのでしょうか?
引力を例として考えてみます。
宇宙の始まり・世界の終わりというものが存在するのかどうかといった極端な例を除けば「引力」はすべてのものに常に働いていると考えられます。
この「万有引力」はどこかで生まれどこかで消滅するような類のものなのでしょうか?
※ 宇宙存在が始まる前のその状態までに思索を及ぼしていったときに、今の宇宙が「生ずる」まえの万有引力以前の力といった命題に関する議論は、ここではとりあえず留保します。
こういった万有引力のように、どこかで生じたわけでもなく、
よってどこかで滅する事のないアプリオリな事実(真実)が
「仏心」であり「自性霊明」な事実であると説く事が
「仏心(仏性)は不生にして・・・」
という事になるわけですが、これを言い切り、言い切るために、自己を探求し尽くす作業こそが、禅の修行という事なのかもしれません。
良寛さんは「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈され子供達と遊ぶことをとても好まれたといわれています。
生まれついた時点では「人の性」は「仏の性」そのものであるのにも関わらず、その後の人間生活によって、このすべての人々が持っている「仏性」を覆い隠し、埋らせてしまう後天的ななにかが蓄積されていくようなのです。
その後天的に積り積もった澱とか垢とか錆のようなものを排除していく作業が大事ということにつながっていくのです。
ここで、お経に何が書かれているかといった机の上での勉強は二の次、仏教の哲学的体系を学ぶことも同じであって、
ただ、只管(ひたすら)坐ることが第一
であると、その「禅体験・禅定に入ること」の重要性を説く「禅宗一般」の経験主義は
人は生まれながらに各々のなかにもともと「仏心」が存在するという前提が必要不可欠な出発点となるのでしょう。
この究極の性善説、私たちはいつの日か受け入れることができるようになるのでしょうか?
修行は続きます。
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坐禅の効用
坐禅をしているときは頭で考えてはいけません。
すべての煩悩を取り去って、「無」の境地に至らなくてはなりません。
そのためにも強い意志と、過酷な修行が必要です・・・
なーんてのが一般の坐禅のイメージ? なんでしょうか?
実際にお坊さんになって衆生を救済しようという使命感に燃えて!という動機であればそういう気概もあってはいけないとは思いませんが、所詮は個人的な趣味の延長線上にあるまつよしの坐禅ですから、
実際のところ、現時点ではこの対極にあるようなちゃらんぽらん坐禅をしているということなのかもしれません。
とはいっても、せっかく普段の生活からはなれて、人里はなれた禅道場(今回はマザー牧場の隣にある国際禅センターといううところに行きました)までいって坐っているので、日常で考えているお金儲けのことやら仕事上のトラブルの解決策を考えるというようなことは流石にしませんでした(笑)
ただ静かに坐る
最近の目標はまずこれです。
道元禅師の曹洞宗の禅に対する基本は
只管打坐
(シカンダザとよむ。)※ 只管は「ひたすら」ともよみます。
なんですが、これはもう少し深い哲学的な言葉であるようなのですが最初にいったように、まつよしの目標はもっと小さいところにあるのです。
非常に短いまつよしの禅ライフの中で、こころを静かに坐っていてたまたま見つけた事があったのです。
それらについて
以下ちょこちょこっと書いていきたいとおもいます。
【 音 】
何もしないで坐っていると普段の生活の中では、気付きもしない小さな様々な音が聞こえてくるのです。
鳥や蛙などのさえずりや鳴き声。
それも一匹や二匹ではありません。
風の音
時には木の葉を揺らす風の音や、建物の窓を通り抜ける音
空気と空気がこすれ合って起こる、風そのものの音
禅堂の外
少し離れた本堂でお経をあげる声や木魚の音
そしてこれらの他、
坐禅の最中に人為的にお坊さまが作り出す音が加わることもあります。
坐禅の始まりと終わりを告げる拍子木の音や、鈴の音
僧堂の外側にある、それようの板(名前がわかりません)を、
宗派独特の有機的なリズムを伴って木槌で叩く音
そして緊張するのが、他の参禅者の肩を”ぴしゃり”と叩く警策の音
坐っていてもはっとします。
【 光 】
音だけではありません。
坐禅をする時間帯はいつであっても様々な外の環境を楽しむことが出来ます。
坐禅をするときには、目はつぶりません。
目をつぶって妄想し、今いる場所から心がどこかに逝ってしまうことは、
禅の修行においてとても嫌われるところらしいのです。
半眼で1メートル少し先を見ているのですが、自分の周りの光の加減が、
時にはゆっくり、時には早く、変化をしていきます。
雲が流れていることを感じるときがあります。
地球が回り、日が傾いていくのがわかります。
それが朝方や夕方であれば、陽の光の色そのものも変化していきます。
また真夜中であっても、禅堂の窓の外にある電柱に向かって飛んでくる
虫の影もチラチラと移ろいます。
【 風 】
そして、僕が今回の参禅で、一番気に入ったのがこの風でした。
あえて、禅堂で座るときに普段と何が一番違うかといえば、たいていの禅堂は 風が入ってくるように窓や出入口が開け放たれているのです。
その為、室内に居ながらにして風を感じます。
この風、つまりは空気の流れなのですが、普通にしていたら寒い冷たい嫌な風であっても、
特に朝の、キンと締まった空気の流れが自分の頭や顔、そして着衣の上からでも座っている自分に対して吹いてくる感じ
その風に更される感じが(少し冷たい方が)心地良かったのです
その風に愛撫されてる感覚からさらに進むと、
あっ いま風が僕の体を突き抜けた・・・?
多分錯覚なんでしょうね(笑)
※ スイミングプールで泳いでいて、調子が良いときに水と一体になったような感覚。
それに近いものが、風を感じることによって生じたのです。
【 薫り 】
嗅覚
坐禅は初心者で短い場合15分、そこからだいたい30分くらいを1クールとします。
その時に使われるのがお線香一本です。
このお線香が燃え尽きる時間が坐禅をする時間に一致するようになっているとのことなのです。
これについても、お寺で座禅すれば和尚様がやってくれます。
また、自宅で座るときも、お線香を炊いて、なにやら神妙な気分になり、より、それらしくなります(笑)
調子が良いときは、このお香の薫りがとても気持ちよく感じることが出来ます。
ところで匂い、特にクサイ匂いでなく、よい香りというのは、
心を落ち着けていないと、感じ方が鈍くなってしまい気がつかないこともあるようです。
こういったお線香によってかもし出される、どちらかというと薄い薫りに慣れてくると、その他、「風の匂ひ」も感じるようになる気がします。
不思議なことに、普段感じていて当たり前の匂いが、かなり長い間記憶に残っていて、数十年たっても、それをふと思い出すこともある経験などありませんでしょうか?
嗅覚は人間のもっとも原始的な感覚の一部であるから、なんとなく、その時の心の状態までも、その香りとともに蘇ってくるような気もします。
風が僕の体を通り抜けた後 風の匂いが 残った・・・・
なんて、
ちょっとかっこ良くないっすか? (笑)
【 ただ静かに坐る 】
「さぁ、悟るぞ!」 「悟らなきゃ!」
なんて切羽詰った状況にない凡夫なんだから、またそれで、いきなり来て「無」になろうと躍起になっても・・・
そもそも、そんな事直ぐに出来るはずもないのだから、開き直って静かにすわっている状態を思いきって楽しんでしまいましょう。
まつよしのとても勝手な解釈です。
【 感覚を研ぎ澄まして行う娯楽 】
そうすると、座ることが娯楽になってきます。
残念ながら、足は痛いし、やっぱり痺ることはたしかです。
そしてなくなりません (笑)
だけど、私たちが日常で必ず触れているはずの 自分の外に広がる世界の
小さな小さな移り変わりと
それとは対照的に、
日が昇って又沈むなんていう、
実はかなり壮大なスペクタクルによる環境の移り変わり
それらを、
耳を済ませ、
目を凝らし、
あらゆる感覚を鋭くして、
自分と世界のうつろいを、ひたすら感じる作業をじっと座ることで、楽しんでみては如何でしょうか?
たまたま、いつもよりも早く仕事が終わった、帰り道。
美しい夕焼けにはっとしてふと立ち止まり数分間 眺めてみたら気持ちが良かった。
その時の感覚に、もしかしたら又なれるのかもしれません。
じっと心を澄ましきり 感覚の世界に浸りきってみたら
それはとても気持ちの良い事なのかもしれません。
合掌

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【自分用メモ】
般若心経の「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」のように感覚を分け記述しているその意味は?
そして、内観法との関係は?
すべての煩悩を取り去って、「無」の境地に至らなくてはなりません。
そのためにも強い意志と、過酷な修行が必要です・・・
なーんてのが一般の坐禅のイメージ? なんでしょうか?
実際にお坊さんになって衆生を救済しようという使命感に燃えて!という動機であればそういう気概もあってはいけないとは思いませんが、所詮は個人的な趣味の延長線上にあるまつよしの坐禅ですから、
実際のところ、現時点ではこの対極にあるようなちゃらんぽらん坐禅をしているということなのかもしれません。
とはいっても、せっかく普段の生活からはなれて、人里はなれた禅道場(今回はマザー牧場の隣にある国際禅センターといううところに行きました)までいって坐っているので、日常で考えているお金儲けのことやら仕事上のトラブルの解決策を考えるというようなことは流石にしませんでした(笑)
ただ静かに坐る
最近の目標はまずこれです。
道元禅師の曹洞宗の禅に対する基本は
只管打坐
(シカンダザとよむ。)※ 只管は「ひたすら」ともよみます。
なんですが、これはもう少し深い哲学的な言葉であるようなのですが最初にいったように、まつよしの目標はもっと小さいところにあるのです。
非常に短いまつよしの禅ライフの中で、こころを静かに坐っていてたまたま見つけた事があったのです。
それらについて
以下ちょこちょこっと書いていきたいとおもいます。
【 音 】
何もしないで坐っていると普段の生活の中では、気付きもしない小さな様々な音が聞こえてくるのです。
鳥や蛙などのさえずりや鳴き声。
それも一匹や二匹ではありません。
風の音
時には木の葉を揺らす風の音や、建物の窓を通り抜ける音
空気と空気がこすれ合って起こる、風そのものの音
禅堂の外
少し離れた本堂でお経をあげる声や木魚の音
そしてこれらの他、
坐禅の最中に人為的にお坊さまが作り出す音が加わることもあります。
坐禅の始まりと終わりを告げる拍子木の音や、鈴の音
僧堂の外側にある、それようの板(名前がわかりません)を、
宗派独特の有機的なリズムを伴って木槌で叩く音
そして緊張するのが、他の参禅者の肩を”ぴしゃり”と叩く警策の音
坐っていてもはっとします。
【 光 】
音だけではありません。
坐禅をする時間帯はいつであっても様々な外の環境を楽しむことが出来ます。
坐禅をするときには、目はつぶりません。
目をつぶって妄想し、今いる場所から心がどこかに逝ってしまうことは、
禅の修行においてとても嫌われるところらしいのです。
半眼で1メートル少し先を見ているのですが、自分の周りの光の加減が、
時にはゆっくり、時には早く、変化をしていきます。
雲が流れていることを感じるときがあります。
地球が回り、日が傾いていくのがわかります。
それが朝方や夕方であれば、陽の光の色そのものも変化していきます。
また真夜中であっても、禅堂の窓の外にある電柱に向かって飛んでくる
虫の影もチラチラと移ろいます。
【 風 】
そして、僕が今回の参禅で、一番気に入ったのがこの風でした。
あえて、禅堂で座るときに普段と何が一番違うかといえば、たいていの禅堂は 風が入ってくるように窓や出入口が開け放たれているのです。
その為、室内に居ながらにして風を感じます。
この風、つまりは空気の流れなのですが、普通にしていたら寒い冷たい嫌な風であっても、
特に朝の、キンと締まった空気の流れが自分の頭や顔、そして着衣の上からでも座っている自分に対して吹いてくる感じ
その風に更される感じが(少し冷たい方が)心地良かったのです
その風に愛撫されてる感覚からさらに進むと、
あっ いま風が僕の体を突き抜けた・・・?
多分錯覚なんでしょうね(笑)
※ スイミングプールで泳いでいて、調子が良いときに水と一体になったような感覚。
それに近いものが、風を感じることによって生じたのです。
【 薫り 】
嗅覚
坐禅は初心者で短い場合15分、そこからだいたい30分くらいを1クールとします。
その時に使われるのがお線香一本です。
このお線香が燃え尽きる時間が坐禅をする時間に一致するようになっているとのことなのです。
これについても、お寺で座禅すれば和尚様がやってくれます。
また、自宅で座るときも、お線香を炊いて、なにやら神妙な気分になり、より、それらしくなります(笑)
調子が良いときは、このお香の薫りがとても気持ちよく感じることが出来ます。
ところで匂い、特にクサイ匂いでなく、よい香りというのは、
心を落ち着けていないと、感じ方が鈍くなってしまい気がつかないこともあるようです。
こういったお線香によってかもし出される、どちらかというと薄い薫りに慣れてくると、その他、「風の匂ひ」も感じるようになる気がします。
不思議なことに、普段感じていて当たり前の匂いが、かなり長い間記憶に残っていて、数十年たっても、それをふと思い出すこともある経験などありませんでしょうか?
嗅覚は人間のもっとも原始的な感覚の一部であるから、なんとなく、その時の心の状態までも、その香りとともに蘇ってくるような気もします。
風が僕の体を通り抜けた後 風の匂いが 残った・・・・
なんて、
ちょっとかっこ良くないっすか? (笑)
【 ただ静かに坐る 】
「さぁ、悟るぞ!」 「悟らなきゃ!」
なんて切羽詰った状況にない凡夫なんだから、またそれで、いきなり来て「無」になろうと躍起になっても・・・
そもそも、そんな事直ぐに出来るはずもないのだから、開き直って静かにすわっている状態を思いきって楽しんでしまいましょう。
まつよしのとても勝手な解釈です。
【 感覚を研ぎ澄まして行う娯楽 】
そうすると、座ることが娯楽になってきます。
残念ながら、足は痛いし、やっぱり痺ることはたしかです。
そしてなくなりません (笑)
だけど、私たちが日常で必ず触れているはずの 自分の外に広がる世界の
小さな小さな移り変わりと
それとは対照的に、
日が昇って又沈むなんていう、
実はかなり壮大なスペクタクルによる環境の移り変わり
それらを、
耳を済ませ、
目を凝らし、
あらゆる感覚を鋭くして、
自分と世界のうつろいを、ひたすら感じる作業をじっと座ることで、楽しんでみては如何でしょうか?
たまたま、いつもよりも早く仕事が終わった、帰り道。
美しい夕焼けにはっとしてふと立ち止まり数分間 眺めてみたら気持ちが良かった。
その時の感覚に、もしかしたら又なれるのかもしれません。
じっと心を澄ましきり 感覚の世界に浸りきってみたら
それはとても気持ちの良い事なのかもしれません。
合掌
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【自分用メモ】
般若心経の「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」のように感覚を分け記述しているその意味は?
そして、内観法との関係は?