岡倉天心外伝 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

昨日ブログに岡倉天心の茶の本のことを書きましたが…岡倉天心って横浜生まれだったんですね、知らなかった…それも横浜本町5丁目、生まれたのが1863年とくれば…椎野正兵衛商店(横浜本町2丁目)のすぐ近くです。岡倉天心は10才頃まで横浜本町で育った…フェノロサとの出会いは、この横浜での子供時代に見聞きしたものが影響したことは確かでしょう…椎野正兵衛商店にも父親に連れられて行ったのでしょうね、きっと…

まずは横浜とのつながりについて…
明治期の美術指導者岡倉天心は、幼名を角蔵といい、越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として文久二年横浜に生まれた。そのころ福井藩は、殖産興業(民富)に力を入れており、安政六年十月には領内物産の集荷機関として九十九橋北詰に物産総会所を設置、元締には幕末期にすでに照手でマニュファクチュア的機業場を経営していた三宅丞四郎があたり、集荷した物産を海外に輸出するために、長崎と横浜に商館を設置したのである。その横浜商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めたのが、天心の父覚右衛門である。当時の石川屋の繁盛振りは錦絵として残されているが、石川屋は本町五丁目(現本町一丁目)、幕府運上所(現神奈川県庁)の目と鼻の先で現在の横浜開港記念会館の建立されている場所に在った。

岡倉天心の父親が福井藩士…福井藩士ならば橋本左内につながり、横井小楠となるのですよ。どうして松平春嶽が横浜に店を出したのかは、この横井小楠の考えがあったのです。
では横井小楠と松平春嶽のつながりについて説明しますと…松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
安政4年、小楠の書簡を村田氏寿に見せてもらった春嶽は、その思想に共鳴し、小楠を越前藩に召請することとした。しかし、肥後藩は、当時酒失事件で処分中であった小楠を、他藩で登用する事に反対した。度重なる春嶽からの要請に、その都度「酒癖」などを理由に拒絶したが、最後は、春嶽の執拗な要請に根負けした。なお、春嶽の妻は、肥後藩主細川斉護の娘、勇姫である。
小楠は私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。元治元年(1864 年)2月に熊本で龍馬は横井小楠を訪ね、横井小楠はのちの龍馬の船中八策の原案となる『国是七条』を説いた。

横井小楠が松平春嶽にレクチャーしたこととは…
「交易」によって積極的に民を富ませるのである。いま、とりあえず一藩について論じれば、一藩の民を富ませることを目的とした藩営の貿易を行うのである。これまで民間で生産したものが商人に買い叩かれているけれども、それをみな藩が損をしない程度の値段で買いあげ、開港地や他領で売る。相場をよく調べ、かつ藩が利益を見込むことさえしなければ必ず民はもうかる筈である。
国(越前藩領)中の産物は何十万両にのぼり、全部を藩政府が買上げるのは不可能だから、たとえば福井や三国港などに「大問屋」を設け、豪農・富商の正直なものを見込んで「元締」とし、ここでも藩政府との場合と同じ原則で物産を買上げる。さらにまた、もっと増産したいと思うものには、藩政府が資金を貸付けて生産させるが、その場合にも利子は取らない。新技術の導入や技術指導なども、一切、負担は藩政府、利益は民という原則をつらぬく。藩の利益は外国から取ればよい。ともかく民を富ませるのが先決なのである。
この政策を実行するための財政運用には、紙幣を発行するのがよい。いま、一万両の紙幣を発行し民に貸しつけて養蚕をやらせ、製品を開港地で売れば正金一万一千両になる。紙幣が正金になった上で、なお一千両の利益があるわけだ。この利益を藩政府がしまいこまずに公開し、また、正金が入るのを見て次の紙幣を発行するというようにすれば、生産と販売は万事好都合に回転していくであろう。そうしてこれは、国(一藩)だけでなく天下(日本国全体)にも適用できる筈である。
これを生産資金として月八朱の利子で貸しつけたこともあって越前一帯の生産は活気づき、武士も含めた老若男女の内職的労働も盛んになった。物産の主なものは糸、布、苧、木綿、蚊帳地、生糸、茶、麻などだが、もっとも廉価な縄、草鞋、蓆などはもっぱら内職的製造によった。しかしえらいもので、初年度北海道に販売した藁類つまり幾万人、幾百日の内職的労働の成果だけでも「二十万何千両」の利益だったという。本命の長崎へ出した生糸が前記したように二十五万ドル (百万両)。次年度には長崎での生糸・醤油二品で六十万ドル。「文久元年」の末には「内外に向け輸出したる物産の総高は漸次増加して、一ヶ年金三百万両に達し、藩札は漸次正貨に転じ、金庫には常に五拾万両内外の正貨を貯蓄し」という景気のいい話となった。

岡倉天心から横井小楠へと話がつながりましたね…
今の富岡にはいろんな話が舞い込んできているらしいですね…イリュージョンの世界の話が…桑原桑原(くわばらくわばら)
歴史が証明していると思うのですが…1873年から富岡市と椎野正兵衛とはつながっているのですから…