敗戦後の日本で、人は皆各々の事情を抱えていた。進駐軍むけに慰安所を設置する水谷。生きるために米兵の「パンパン」をする夏。家族を戦争で失ってパンパンを憎み、殺害する男。チンピラに使われて小銭をもらう浮浪児。山田よねは、それを充分わかっている。しかし、私利私欲のために勝手に線を引いて自己正当化し、弱者を虐げる者を「おぞましい」と批判し、憤慨する。斧ヶ岳美位子の尊属殺人裁判と、被差別部落出身者の冤罪の可能性が高い窃盗裁判は、よねと轟が理不尽な「クソ社会」に挑んだ法廷だ。姉の夏が誇れる妹の戦いの場。〈カフェ燈台〉は、かすかな灯りを世にともす〈 山田轟法律事務所〉になる。増野が望んだように。





キリスト教カトリックに似た宗教を信仰する修道女たちと、巡礼先の村の人々をめぐる物語だ。教会のステンドグラスにキャストの名前が投影され、出演者がスポットライトに浮かび上がるオープニングの演出は映画を思わせる。

修道女たちが信仰する宗教は「邪教」扱いされ、弾圧の憂き目に遭っている。国王の命令で、彼女たちを慕う村人たちも、弾圧に加担せざるを得なくなっている。シスターのひとり、ニンニと特別に親しい村の「白痴娘」オーネージーが、彼女たちを守ろうとするところからスラップスティックが展開する。

殺人をめぐるドタバタはアルフレッド・ヒッチコック監督『ハリーの災難』を、毒殺されたシスター・グリシダが「小悪魔的」にオーネジーに憑依する様はウィリアム・フリードキン監督『エクソシスト』を思わせる。

しかし、何より、本作は寺山修司の影響が色濃いように感じられる。兵士が樹木になってしまうのは、寺山のラジオドラマの描写だった。ラストで列車が現れ「向こうの世界」にひとを誘うのは、「寺山的なもの」の結晶、鄭義信作『ザ・寺山』のラストと符合する。そもそも、修道女たちの世界とは、俗世から離れた「向こうの世界」なのだ。ハッピーエンドになるかと思いきや、葡萄酒を飲んだ修道女たちは死に、オーネジーも共に逝ってしまう。木になったテオは、なす術なくそれを見送る。

トラブルを抱える度、「ドクター・ショッピング」ならぬ宗教渡り「ゴッド・ショッピング」をしてしまうダルとソラーニ母娘の姿に、「迷える子羊」現代人へのケラリーノ・サンドロヴィッチのアイロニーを感じた。

ところで、作中「アーメン」の代わりに唱えられる祈りの言葉を聞いて、平田オリザ作・演出『冒険王』の挨拶を想起した。中東かどこかの挨拶らしく、外出するひとが「オッシャカ」(行ってきます?)と言うと、「ギュレギュレ」(気をつけて?)と見送る、というものだ。このような挨拶が本当にあるのかは知らないが、本作の「アーメン」の代用語は実在しないだろう。聞くと、思わずクスッと笑ってしまう響きだ。

「神の御名において、ギッチョダ」

 

 

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 僕が大学に入った頃、冷戦は終結し、ソ連は崩壊していた。フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』を書いて、リベラル陣営の勝利を宣言した。だからキャンパスで「新左翼」を名乗る人たちと話したとき、僕は思わず「左翼は消滅したと思ってました」と言ったものだった。
 歴史は終わっていない。グローバリゼーションの進展で格差が拡大し、鬱屈を抱えた人々は反動的に狭隘なナショナリズムにすがるようになった。映画『帰ってきたヒトラー』のラストで、現代にタイムスリップしてきたヒトラーはつぶやく。「好機到来だ」と。
 日本の学生運動のメルクマールは、やはり「全共闘」なのだ。これはいつまでたっても更新されない。だから本書も「全共闘以後」の歴史をえぐり出す。
 最近は「~くずれの◯◯」という言い方を聞かなくなった。たとえばルーシー・モノストーンなら「ミュージシャンくずれの革命家(笑)」(『多重人格探偵サイコ』)とか。外山恒一さんをこの言い方で表すと「左翼くずれのファシスト」か?
 おかしい。「くずれ」どころか「あがり」ではないのか?
 外山さんがバーの雇われ店長をしていたとき、福岡の西新のその店に飲みに行って、「デモ論とか書かないんですか?」と訊いたことがあった。本書はその「デモ論」の基礎資料にあたるのかもしれない。

 

 

 

 

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